今月の魚アーカイブ
鯛 たい
2024.01.5 泥濘(ぬかるみ)の食卓、または
一人の女と文豪二人と第三の男。
お正月にふさわしい魚といえば、やはり鯛でしょうか。
健啖家だった谷崎潤一郎 (1886〜1965)の作品にはよく食べ物が登場します。魚介類でいえば鱧、鮎と並んで多いのが鯛でしょう。
《幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答えて貞之助に可笑しがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説に依ると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。》(谷崎潤一郎『細雪』)
女好きの男嫌いで文壇の付き合いを好まなかった谷崎ですが、6つ年下の芥川龍之介 (1892〜1927)、佐藤春夫 (1892〜1964)とは仲よしでした。
(谷崎と佐藤は1935年に創設された「芥川賞」の選考委員を初回からつとめています)
30歳ですでに新進気鋭の作家として名を馳せていた谷崎が芥川、佐藤と知り合ったのは1917年(大正6)の夏。芥川の最初の短篇集『羅生門』の出版記念会の発起人になってもらおうと2人が谷崎に会いに行ったのがはじまりです。
3人は意気投合し、佐藤は谷崎の紹介で翌年「中央公論」に『李太白』 を発表します。
これは唐代の詩人・李白が酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ちて溺死したという伝説をもとに、李白が「星」になるというお話です。
2ヶ月以後、谷崎は『魚の李太白』 を発表します。チリメン細工の「鯛」が李白だったという童話のようなお話で、佐藤のデビュー祝いに贈ったものでした。
12年後、谷崎は妻の千代を佐藤に贈ります。
これが世間が眉をひそめた、いわゆる「細君譲渡事件」 です。
この事件の真相……もう一人の作家が事件に絡んでいたことが明らかになったのは1988年(昭和63)、谷崎の死後23年も秘密にされていたのです。
奇妙なことに真相を伝えた「文學界」の記事はまったく話題になりませんでした。文壇ゴシップが大好きな瀬戸内寂聴さんですら気づかず、 《私は寡聞にしてそんな話を知らなかった。それほどの事が発表されているにかかわらず、これまで、その事実が、だれにも問題にされなかったことが不思議で異様である》(瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』)
《谷崎ほどの作家になれば、書簡が見つかった、未発表の作品が見つかったといって新聞種になるのに(中略)当時新聞もまったく取り上げていない》(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)
そのため今でも「細君譲渡事件」をシンプルに谷崎→佐藤と思い込んでいる人は少なくありません。
つい最近まで私もそうでした。
……というわけで、谷崎、佐藤、そして第三の男のスキャンダラスな恋愛模様をたどってみましょう。いやあ、ドロ沼ですよ〜。
谷崎潤一郎は生涯で3回の結婚をしています。
最初の結婚は1915年(大正4)、29歳のときでした。
学生時代から出入りしていた3歳年上の料亭の女将・初子にぞっこんだった谷崎は結婚を申し込みますが、「旦那(パトロン)がいるからダメ」と振られ、「うちの妹はどう?」と紹介された千代と結婚します。
千代との間に一女をもうけるも、結婚はうまくいきませんでした。谷崎には家庭的な千代は平凡で退屈だったのです。そして谷崎は千代の妹でまだ15歳のせい子に入れあげ、同棲をはじめます。
せい子をモデルに生まれたのが、ナオミという自由奔放な娘が自分に惚れた中年男を翻弄する小説『痴人の愛』 でした。
谷崎家に出入りしていた佐藤春夫は千代に同情します。
同情は恋の始まりといいますが、佐藤も妻・香代子と春夫の弟・秋雄が通じていることを知り、メンタル的にどん底でした。
妻を寝取られた男と夫のDVに耐える妻。妻と別れた佐藤は千代と深い仲になります。
1921年(大正10)、谷崎は「せい子と結婚するので、千代と娘をよろしく」と佐藤に約束しますが、せい子に結婚を断られると、「やっぱ、あの話なし!」と約束を反故にします。
激怒した佐藤は谷崎と絶交(小田原事件) 。千代への思いを綴った作品を続々と発表します。有名なのが「さんま苦いか塩つぱいか」の『秋刀魚の歌』 です。
千代への手紙は、こんな感じです。
《私はよく自分で死ぬことを考へる。――ほんとうにあなたなしに私はどうして生きて行けばいいのだろう》《あなたがそばに居てくれない一生は、僕にとつて結局それだけで破滅なのだ》(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)
そんな佐藤ですが1924年(大正13)に芸者・タミと再婚。しかし2年後にタミの従妹・きよ子と恋愛事件を起こします。
「あなたのしていることは谷崎と同じじゃないの」とタミに説教された佐藤は「ようやく谷崎の気持ちが分かった」と谷崎と和解します。
……ツッコミどころ満載ですが、先に進めましょう。
小田原事件から10年後。
1930年(昭和5)、「千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り」という谷崎・佐藤・千代3人連名の挨拶状が配られ、各新聞は「細君譲渡事件」 としてセンセーショナルに報じました。
その経緯は長い間、夫婦間の冷え切っていた谷崎が佐藤に持ちかけたとされ、谷崎の代表作の一つ『蓼喰ふ虫』 に登場する夫公認の妻の愛人のモデルも佐藤春夫だと考えられてきました。
事件から60年後、「細君譲渡事件」の前に谷崎が別の男と千代を結婚させようと画策していたことが谷崎の末弟により明らかにされました。
相手は千代より8つ年下の和田六郎、のちの推理小説家・大坪砂男 (1904〜1965)。『蓼喰ふ虫』のモデルは佐藤ではなく大坪だったのです。
大坪砂男の名前は今ではあまり耳にしませんが、江戸川乱歩 (1894〜1965)が命名した「探偵小説界の戦後派五人男」 の一人です(他の4人は『ゴジラ』の香山滋、『事件記者』の島田一男、『白昼の死角』の高木彬光、『甲賀忍法帖』の山田風太郎)。
1924年(大正13)頃から谷崎家に出入りするようになった大坪は裕福な家庭に育ったイケメンで頭の回転もよく話上手な好青年。2年後、千代と大坪は急速に接近します。
谷崎は2人の仲を黙認、むしろそそのかすように振る舞いました。
しかし突然、大坪は姿を消します。
理由は佐藤が大反対して結婚を阻止したとも、大坪がいまだに昔の恋人・佐藤を頼る千代に嫌気が差したともいわれています。
谷崎は千代と別れて女中の絹枝と結婚するつもりでしたが、佐藤と千代の猛烈な反対にあって話が流れると、翌年20歳年下の女性記者・丁未子(とみこ)と再婚します(2年で破局)。
谷崎はこのとき3番目の妻となる子持ちの人妻・松子(『細雪』 の次女・幸子のモデル)とも密かに関係を持っていたといいます。
……すでに胸焼けものですが、修羅場は続きます。
消息を絶った大坪は親の遺産で放蕩三昧の日々を送り、その後、薬学の知識を活かし警視庁刑事部鑑識課に勤務するものの上司の妻・徳子と恋仲になったことが原因で退職。
株屋や画商をしながら遺産を使い果たした大坪は、やはり「作家になりたい」と徳子と子どもとともに長野県の佐久に疎開している佐藤春夫のもとを訪ねます。そこには千代もいるのにです。
小田原事件から24年ですから佐藤と千代も初老。
しかし50歳を過ぎても佐藤は枯れておらず、近所に疎開してきた人妻に熱をあげ、毎日のようにラブレターを出していました。
おまけに若くて美しい大坪の妻・徳子を「のりさん、のりさん」と佐藤が可愛がるので、癪に障った千代は「才能のある大坪を一人前の作家にできないのはアナタが悪い」と徳子に厳しく当たります。
ちなみに大坪は大坪で、東京で別な女性との間に子どもをつくっていますから、なんかもうメチャクチャです。
佐藤の大坪の小説への評価は「筋は立てられるが、描写が出来ない」と厳しいものでしたが大坪はようやく佐藤のめがねにかなった作品を書き上げます。
1948年(昭和23年)、推理小説雑誌「宝石」に『天狗』 を発表。
江戸川乱歩から高く評価された大坪ですが、寡作でしかも短編しか書けなかったために暮らしは窮乏し、やがて前借りしては踏み倒し、日本探偵作家クラブのカネを使い込むなどして1957年(昭和32)に表舞台から姿を消しました。
その後、大坪はゴーストライターとして、同じ佐藤春夫門下の柴田錬三郎に『眠り狂四郎』シリーズなどのプロットを提供しては小銭を稼いでいたといいます。
千代という一人の女性と交錯した2人の文豪と推理小説の鬼才。3人の作家は不思議なことにほぼ同時期にこの世を去っています。
1964年5月、佐藤春夫は自宅でラジオ番組収録中に心筋梗塞で倒れ逝去。享年72。同年10月の東京五輪開会式では彼の作詞した「オリンピック東京大賛歌」が歌われました。
1965年1月、大坪砂男は肝硬変に胃がんを併発し、ひっそりと世を去りました。享年60。痛み止めの注射なども含め一切の治療を拒否し、野武士のような最期だったといいます。
1965年7月、谷崎潤一郎は腎不全に心不全を併発して死去。享年79。
谷崎の死は3番目の妻・松子の連れ子(戸籍上は松子の妹・重子の養子)の嫁、つまり義理の娘かつ姪である千萬子をモデルに、フェチズムとマゾヒズムと老人の性欲を描いた『瘋癲老人日記』 を発表した3年後のことでした。
『瘋癲老人日記』の老人=谷崎は食欲旺盛で、ここにも鯛、鱧、鮎が登場します。
《予ハ滝川ドウフノ他ニ晒シ鯨ノ白味噌和エガ欲シクナッテ追加スル。刺身ハ鯛ノ薄ヅクリ二人前、鱧ノ梅肉二人前。鯛ハ婆サント浄吉、梅肉ハ予ト颯子デアル。焼キ物ハ予一人ダケガ鱧ノ附焼、他ノ三人ハ鮎ノ塩焼、吸物ハ四人トモ早松ノ土瓶蒸シ、外ニ茄子ノ鴫焼。
「マダ何カ喰ッテモイヽナ」
「冗談ジャナイ、ソレデ足リナインデスカ」》(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)
戦前は「ブルジョワだ」、戦時中は「時局をわきまえない」、戦後になると「封建的だ」と批判され、ときには発禁処分を受けながらも、コロコロと変わる世間に同調することなく、谷崎はひたすら己の欲望と向き合いました。
《谷崎の生涯はまさしく、私たちにとって根源的な欲望である〈性慾〉との格闘で、それをいかに藝術的に昇華させるかの歴史だったことに気づかされる》(千葉俊二『谷崎潤一郎 性慾と文学』)
《谷崎潤一郎は「食魔」と呼ばれる恐るべき美食家でもあった(中略)見苦しく醜悪なほどに食べ続け、同時にそんな自分を冷徹な目でみつめ続けてきた》(坂本葵『食魔 谷崎潤一郎』)
《人の快楽を是認し、人の悪を是認し、自らの肉欲のなかに潜む怪物を飼いならす決意は、とどのつまり、人間の自由の獲得であった》(嵐山光三郎『文人悪食』)
『昭和ミステリー大全集(上)』には佐藤春夫の『指紋』 、谷崎潤一郎の『途上』 、大坪砂男の『天狗』 と3人の作品が仲よく収められています。
事実は小説よりも奇なり。ミステリー小説よりも3人の恋愛譚のほうがはるかにミステリアス、いやむしろホラーだと思うのは私だけでしょうか。
◎追記 千代は1981年(昭和56)に84歳で大往生。初期の谷崎文学に大きな影響を受けた江戸川乱歩は谷崎の亡くなる2日前に死去している(享年70)。
*参考文献 『つれなかりせばなかなかに』瀬戸内寂聴/中央公論社『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』小谷野敦/中央公論新社『谷崎潤一郎 性慾と文学』千葉俊二/集英社新書『食魔 谷崎潤一郎』坂本葵/新潮新書『文人悪食』嵐山光三郎/マガジンハウス『推理文壇戦後史』山村正夫/双葉社『昭和ミステリー大全集』(上)新潮文庫『天狗』大坪砂男/国書刊行会
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