江戸時代の庶民の暮らしを
変えたイワシのちから

ジメジメした梅雨は憂鬱な季節ですが、魚好きには楽しみな季節でもあります。皮と身の間にたっぷり脂ののった「梅雨イワシ」「入梅イワシ」のシーズンだからです。刺身、酢じめ、塩焼き、生姜煮……、毎日食べても飽きません。栄養も満点です。


栄養満点のイワシは食用としてだけでなく、養殖魚の餌や畜産飼料として現代でも利用されています。江戸時代、イワシを砂浜に並べて天日干しした「干鰯(ほしか)」は綿花や藍などの栽培に欠かせない肥料として高値で取引きされていました。


江戸時代に庶民の衣服の素材がそれまでの麻から木綿に変わったのも、木綿の材料となる綿花の生産量を飛躍的にアップさせたイワシの栄養パワーがあったからです(それまで使われていた人糞尿、馬糞、牛糞由来の肥料は、窒素は多いものの、リン酸・カリが足りませんでした)。


布団に綿を入れるようになったのもこの頃です。着心地がよく丈夫で、保温性に優れ、加工もしやすい木綿は、藍によく染まるという特徴も持っていたことから、河内木綿、播州織、久留米絣(かすり)など藍染の綿織物が各地で発展しました。


また、大釜で煮たイワシを木製の圧搾器に入れて搾り取った「魚油」は、行灯(あんどん)の燃料として用いられました。


魚油は臭いがするのですが、ロウソクや菜種油などの植物油よりも安価だったことから低所得者層に重宝され、この魚油による明かりは庶民の夜の過ごし方を一変しました(魚油の搾りかすは「〆粕(しめかす)」と呼ばれ、これも肥料になりました)。


干鰯が育てた綿は凍える冬に温もりを与え、藍は手工業を起こし、魚油は闇夜を明るく照らしたのです。いわば江戸時代、イワシが庶民に文明開化をもたらしたともいえるでしょう。


干鰯などの産地として有名だったのが千葉県の九十九里で、室町時代末期、ここに紀州の漁民が移り住み、地引網によるイワシ漁を伝えたといわれています。干鰯・〆粕・魚油は船で江戸に運ばれ、九十九里に富をもたらしました。


干鰯の流通量が増えた元禄時代、江戸・深川に干鰯場と呼ばれる取引拠点ができました。深川は仙台堀・油堀(現・首都高深川線)・平久川・大島川(現・大横川)といった運河が張り巡らされた、舟運に優れた場所でした。


深川に集められた干鰯は、綿作が盛んだった畿内(特に摂津・河内・和泉)、藍の最大の産地である阿波など、主に上方へ送られました。


深川は明治になっても米・材木・肥料問屋の町として賑わい続けました。日本を代表する映画監督、小津安二郎は明治36年、深川の生まれで、干鰯問屋の「湯浅屋」は小津の本家にあたります。


ここからは想像なのですが、子ども時代の小津少年にとって、近所を流れる運河の船着場や艀(はしけ)船は絶好の遊び場だったのではないでしょうか。地面よりも一段低い堀から見上げると、見慣れた街並みも新鮮に映ったことでしょう。


小津映画の最大の特徴ともいえるローアングルは、そんな幼少期の体験が無意識に表れているのではないでしょうか……といっても小津安二郎関連の本を読んでも、そんな説を書いている人はいないのですが。


明治の中頃になると、リン鉱石に硫酸を加えた化学肥料が登場します。また、政府の殖産興業政策で、紡績工場が建てられ、アメリカから安い綿花が大量に輸入されるようになりました。


こうして近代化が進むとともに、海と畑がつながり栄養分が循環していた日本の農業は大きく姿を変えていったのです。


いかがでしたか。イワシってすごいなあ……と思って食べる梅雨イワシ。最高です。

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