今月の魚アーカイブ
黒舵木 くろかじき
2023.06.1『老人と海』と孤独なゲーム。
今年3月に行われた第5回ワールド・ベースボール・クラシックの決勝「日本対アメリカ」戦の最終回、大谷翔平VSマイク・トラウトの対決にはしびれましたね。
野球の本質とは何か。アメリカの作家ジョン・アップダイクはテッド・ウイリアムズの引退試合観戦記にこう記しています。
《数あるチームスポーツの中でも、野球こそは、その優美な間断のある動き、白い姿で立つ佇む男たちをまばらに配した広大で静かなグラウンド、そしてその冷ややかな数学的側面も含めて、一匹狼を受け入れ、一匹狼という花を添えられるのに最も適しているように思える。それは本質的に孤独なゲームなのだ》
《我々の世代が目にした中で、かくも濃密にこのスポーツの痛切さを抱え込み、かくもたゆみなく、天性の技術を磨き続け、見ていて喜びに息が詰まるほどの集中力を持って、一打席一打席に持てる能力のすべてを注いだ選手は他にいない》(「ボストンファン、キッドにさよなら」)
いやあ、ホント、息が詰まりました。
WBC決勝戦が行われた「ローンデポ・パーク」はマイアミ・マーリンズ(カジキ)の本拠地でした……というわけで、今日はカジキのお話です。
カジキといえば、やはりアーネスト・ヘミングウェイ(1899〜1961) の『老人と海』でしょうか。
みなさんご存じ、巨大カジキと老漁師との戦いの物語です。
この巨大カジキ、原文には“marlin”としか書かれていませんが、何カジキだったか気になりませんか?
「マカジキ」と訳している本が多いのですが、「(一社)責任あるまぐろ漁業推進機構」のサイトにある鈴木治郎氏(旧遠洋水産研究所浮魚資源部長) のコラム「“老人と海”に出てくるカジキの種類について」に、なるほどという答えがありました。
巨大化するカジキには何種かあるものの、
マカジキ
…………大西洋には分布しない。
シロカジキ
………大西洋には分布しない。
ニシマカジキ
……大西洋にも分布するが、1500ポンド(約680㎏)まで巨大化するとは考えにくい。
メカジキ
…………大西洋にも分布し、巨大にもなるが、英語では“swordfish”で、“marlin”とは言わない。
《とすると、老人の釣り上げたカジキはクロカジキ しかないのではないかと私は想像している》
ちなみに英語では死ぬ直前に体色が鮮やかな青になることから“Bluemarlin”と「青」ですが、和名ではその後「黒」くなることから“クロカジキ”と呼ぶのだとか。
小説では、サンチャゴ老人は大海原でクロカジキと戦いながら、まるで神と対話するようにニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオ (1914〜1999) に語りかけます。
ベーブ・ルース が引退した翌年(1936) にデビューしたジョーは、走攻守三拍子揃った才能、人に苦痛や怒りを見せないタフぶり、エレガントな動きや着こなし、ファンや報道陣への紳士的な対応などで人々を魅了し、たちまちスーパー・ヒーローとなります。
しかも、ジョーはシチリアから移民してきた貧しい漁師の子どもですから、まさにアメリカン・ドリームの体現者。
《おれだってディマジオに笑われんようにしなきゃ》
《さっきの、サメの脳天への銛の一撃。あれをディマジオが見ていたら、感心してくれたかな》
《おまえはそもそもが、漁師になるために生まれたんだ、魚が魚になるために生まれたようにな。聖ペテロだって、あのディマジオの親父さんだって、漁師だったんだ》(『老人と海』)
次々と襲いかかる困難に、決してあきらめることなく、気力、体力、知力を振り絞って立ち向かう……これはサンチャゴであるとともに、「新移民」と蔑視されたイタリア系移民の最初のスターといってもいいディマジオに重なります。
《「だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない」老人は言った。「叩きつぶされることはあっても、負けやせん」》
《「闘う」老人は言った。「死ぬまで闘ってやる」》(『老人と海』)
ディマジオはヘミングウェイの歳の離れた友人でした。
一緒にボクシングを観戦したときのこと、ジョーにサインを求めるチビっ子ファンに取り囲まれ、「おじさんも有名人なんだろ?」と少年に尋ねられたヘミングウェイは「ああ、ディマジオのお医者さんだよ」と答えたといいます。
《ディマジオはヘミングウェイが思い描いていたヒーローの条件を完全に満たしていた。ヘミングウェイの小説に登場する空想のヒーローたちは、プレッシャーの下でも優雅に振る舞う。感情をあらわにすることはなく、ひたすら行動によってのみ己を語る。ディマジオはまさにそういう種類のヒーローだった》(デビッド・ハルバースタム『男たちの大リーグ』)
満身創痍のジョーは1951年末に引退。翌52年、ジョーの跡を継ぐミッキー・マントル を軸に4連覇を目指すヤンキースと初の黒人選手ジャッキー・ロビンソン が躍動するドジャースが激突するワールドシリーズ直前の9月に『老人と海』は出版されました。
カジキは長く尖った吻(ふん)を、バットのようにするどくスイングして獲物を叩き、弱ったところを捕食します。
あえて深読みすれば、巨大カジキ=偉大な打者です。そのカジキの壮絶な死……。
『老人と海』は引退した友人に向け、時が流れてもみんな君を忘れないぞと贈った讃歌とも読めるのではないでしょうか。
『老人と海』はヘミングウェイの生前に刊行された最後の作品になりました。
さて、ジョーの好敵手、冒頭にあげたボストン・レッドソックスのテッド・ウイリアムズ (1918〜2002) は野球とともに釣りをこよなく愛しました。
シーズンが終わると、フロリダの田舎町で3ヶ月半の釣り三昧。スプリング・キャンプが始まると釣りを封印して練習に励み、開幕を迎えるというルーティン。
バッティングと同様、釣りの研究も熱心だったテッドは、サンチャゴ老人には及ばないものの、400ポンド(約181kg)のカジキを釣り上げています。
テッド・ウイリアムズの通算成績(19年)=打率.344、521本塁打、1839打点。首位打者6回、本塁打王4回、打点王4回、三冠王2回、MVP2回。
ジョー・ディマジオの通算成績(13年)=打率.325、本塁打361本、1537打点。首位打者2回、本塁打王2回、打点王2回、MVP3回。
両者の記録を調べていて驚いたのが、選球眼を評価する指標BB/K(四球÷三振)の高さです。
あまり語られることのないBB/Kですが、パワーヒッターでありながら、通算成績テッド2.85、ジョー2.14。
この数字、現代のスーパースターはどうかというと、マイク・トラウト 0.68*、大谷翔平 0.42*、アーロン・ジャッジ 0.52*。
歴代でもベーブ・ルース 1.55、ハンク・アーロン 1.01、バリー・ボンズ 1.56、ミゲル・カブレラ 0.60*ですから、2人の数字は異次元です。(*2022年までの数字)
ただ、2人の打席へのアプローチは異なっていて、ジョーがチームの主軸打者として、「ときにはボール球を打つ義務がある、四球だけでは不十分」と信じていたのに対し、テッドは「ボール球を打ち始めたらキリがない、悪球に手を出させたら投手の勝ち」という考えでした。
その結果ともいえるのが、ジョーの56試合連続安打、テッドの84試合連続出塁という大記録です。
オールスターゲームにテッドは16回、ジョーは9回選出され、ライバル2人は4度(41,42,47,49年)アメリカン・リーグの3・4番を担いました。
ともに球史に残る名選手ですが、所属チームの力の差は歴然でした。
ジョーが在籍した13年間でヤンキースは10回リーグを制覇し、ワールドチャンピオンに9回輝いています。
一方、テッドが在籍した19年間でレッドソックスがリーグを制覇したのは1946年の1度きり。そのワールドシリーズでもカージナルスに3-4で敗れています。
もう一つ、テッドがジョーとまるで違ったのは、その振る舞いです。
デタラメを書く新聞記者に唾を吐きかけ、汚いヤジを飛ばす観客ともしょっちゅう揉め事を起こしました。ネクタイが大嫌いで、頑固で安易な妥協をせず、帽子をとってファンに挨拶することさえ、芝居がかっていると拒否しました。
選手人生が終わる引退試合の最終打席。
テッドは3球目をフルスイングして満員のフェンウェイパークのスタンドにボールを叩き込むと、いつも通り笑み一つ浮かべず、うつむき加減にダイヤモンドを急ぎ足で一周します。
球場全体が狂喜の大歓声、カーテンコールを求める絶叫に包まれても、立ち上がることはありませんでした。チームメイトや審判にも促されましたが、「俺らしくない」と。
冒頭にあげた観戦記でアップダイクはこの瞬間を《神々は手紙に返事を出したりはしないのである》と記しています。
デビッド・ハルバースタムもこう書いています。
《インスタント有名人の多くがプラスチックの板から切り抜いたように薄っぺらく見える時代にあって、テッド・ウィリアムスは、良きにつけ悪しきにつけ、長所も短所もひっくるめて、際立っていた。ウィリアムスは、本物以外の何物でもないのだ》(『男たちの大リーグ』)
実はテッドは自伝のなかで『老人と海』について、ちょっとだけ触れています。
《私がかつて読んだヘミングウェーの「老人と海」だって、話はだらだらと続いているから、勘弁して聞いていただきたい》(『大打者の栄光と生活』)
ヘミングウェイの文章をだらだらだなんて、テッド・ウイリアムズにしか言えませんね。
*参考文献
『アップダイクと私』ジョン・アップダイク/河出書房新社
『老人と海』アーネスト・ヘミングウェイ、高見浩=訳/新潮文庫
『大打者の栄光と生活』テッド・ウイリアムズ/ベースボール・マガジン社
『バッティングの科学』テッド・ウイリアムズ/ベースボール・マガジン社
『男たちの大リーグ』デビッド・ハルバースタム/文春文庫
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