Web版 解説ノート
2022年6月20日(月)更新
食べる以外にも貝は大活躍。
2022年6月20日(月)更新
通貨として、装飾品として
食用としての貝を見てきましたが、貝類の利用はそれだけではありません。
大昔、中国、インド、アフリカ、オセアニアと世界の広い地域で貝殻が通貨として使われていました。これは貝貨(ばいか)と呼ばれるもので、主に流通していたのは、キイロダカラなどのタカラガイです。
漢字で貝偏のものは、財、貯、賄、購、販、貨、贈、賭……など金銭に関係する漢字が多いのはこのためです。
貝とお金の話でいえば、日本ではこんなこともありました。
明治維新は本格的な貨幣経済時代への転換期でもあります。維新で納税は年貢から金納となり、自給自足だった農民も現金が必要な社会となりました。
このため高い賃金を求めて、オーストラリアのアラフラ海に渡り、潜水夫として活躍したのが和歌山の漁民・農民たちでした。海に潜って洋服に欠かせないボタンやナイフの柄の素材となる白蝶貝などを採集したのです。
海を怖れ、潜ることを嫌がる民族が多いなか、彼らは優秀なダイバーとして重宝されました。
漁はダイバー(潜水夫)、テンダー(綱持ち)、コック、貝の清掃、仕分けをおこなうクルーなど8〜10人を乗せた小型船で操業しました。半日から一日半かけて漁場に到着すると、ダイバーは重いヘルメットと潜水服を着込んで水中に潜り、海底を歩くようにして白蝶貝を採集しました。空気はホースとふいごを使って人力で海底の潜水夫に送りました。
日が暮れるまで1回30分から1時間の潜水を何度も行い、漁は1週間から2週間休みなく続いたそうです。高賃金でしたが、潜水病で重度の障害をおったり、亡くなったりする方も少なくなかったそうです。
世界シェア9割、真珠大国日本
貝から生まれた最も美しいものの代表といえば真珠でしょう。
真珠は、異物混入などにより、アコヤガイや白蝶貝などの体内に貝殻成分(真珠層)を分泌する外套膜が偶然入り込むことでできます。天然真珠は1万個の貝から数粒しか見つからないといわれ、古くから宝石として珍重されてきました。
20世紀のはじめには、天然真珠はダイヤモンドよりも高価でした。ヨーロッパの真珠シンジケートが独占して、価格を吊り上げたのです。
その頃、三重県の英虞湾で養殖真珠の生産に成功したのが後に「真珠王」と呼ばれる御木本幸吉です。ロンドンを中心に養殖真珠を売り出すと、これが爆発的にヒットしました。
養殖真珠の作り方は、アコヤガイの殻を広げ、外套膜の切片(2mm角)と真珠の中心となる核(肉厚の二枚貝の貝殻を研磨して球状にしたもの)をメスとピンセットを使って生殖巣に挿入します。これを核入れといいます。
核入れした貝は筏に吊るして、海水温や水環境に気を配りながら大切に育てます。埋め込まれた外套膜は細胞分裂して、真珠を生成する真珠袋をつくり、その中で炭酸カルシウムの結晶と有機質が交互に積層して、少しずつ真珠は大きくなっていきます。そして約1年半後、貝を引揚げ、真珠を取り出すのです。
1950年代には世界の9割のシェアを占めるまでになった「真珠大国」日本でしたが、60年代後半になると流行の変化で需要が激減します。プラスチックなどの摸造真珠が登場したことに加え、90年代には、海の環境悪化とともに新型感染症の蔓延でアコヤガイの大量死が発生。生産量が減少して苦しい状況が続いています。
おはじき、ベーゴマ、碁石も貝
貝は平安時代から玩具としても使われています。ハマグリの殻は「貝合わせ」という遊びに。キサゴはおはじきに。バイガイの殻に粘土を詰めて作ったコマが「バイゴマ」で、これは後に訛って「ベーゴマ」となりました。
囲碁が日本に伝わったのは7世紀頃ですが、碁石の白石の最高級品とされているのがハマグリをくり抜いたものです。
普段目にする小さなハマグリからどうやって碁石を作るのか不思議ですが、外洋に生息するチョウセンハマグリは碁石をいくつもくり抜けるほど大きく成長するのです。
ハマグリから白石が作られるようになったのは17世紀ごろのことです。当時は常陸産や桑名産のハマグリを使い、大阪で加工していましたが、明治半ばに宮崎県日向海岸で厚みのある美しいハマグリが発見されると、日向が蛤碁石の一大産地かつ加工地となりました。
現在は原料となるハマグリが採れなくなり、メキシコから輸入されています。超高価なものだと1000万円を超えるものもあるそうです。
このように我々は昔から食べるだけでなく、様々なことに貝を利用していたのです。
貝に願いを
貝に願いを
日本には約2500の貝塚があるように、先史時代から私たちは貝を常食していました。食べるだけでなく、貝殻はナイフや腕輪にも利用しました。綺麗で美味しい貝の特集です。