Web版 解説ノート
2022年12月20日(火)更新
限界を迎えた築地市場と迷走した豊洲移転。
2022年12月20日(火)更新
築地=マグロのイメージができたわけ
1945年(昭和二〇)8月15日、日本は無条件降伏。築地市場の大部分は接収され、進駐軍のクリーニング施設や駐車場などになりました。
終戦直後の日本は飢餓のどん底でした。とりわけ都内の物資不足は深刻で、政府はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に食糧支援を懇願し、アメリカから大量の食糧が輸入されることになりました。
アメリカの余剰小麦を支援として受ける形で、学校給食はパン食となり、政府もパンや畜産物を積極的に食する「食の洋風化」を奨励しました。戦後、日本人の食が変化した一因がここにあります。
1950年(昭和二五)には水産物の統制が解除され、仲買人制度も復活。51年にはサンフランシスコ講和条約が締結されて占領が終わり、接収されていた築地の土地も返還されました。
戦中・戦後と中央卸売市場としての機能が奪われていた築地市場の出発です。
遠洋マグロ漁業が再開されると、築地市場の岸壁は水揚げされたマグロで埋まり、築地=マグロというイメージはこのころに始まります。
がむしゃらに日本人は働き、56年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言するほどに回復しました。
昭和の初めに約450万人だった東京の人口も800万人に膨れ上がり、その胃袋を満たすため、貨物列車や船はフル回転で水産物を築地市場に運びました。やがて道路網が整備されると、トラック輸送が増加。1965年(昭和四〇)には鉄道便の取扱量を上回ります。
高度経済成長で東京はどんどん大きくなっていきました。遠浅な東京湾の海底は大型船が航行できるように深く掘削され、浚渫工事で発生した膨大な土砂と、人口増に伴う大量のゴミを使って、東京湾沿岸の広範囲の埋め立てが進みました。
江戸の食文化を育んだ干潟や浅場は消え、台場、青海、夢の島、有明……と埋立地が次々に誕生しました。そのなかで首都圏のエネルギー基地として再整備された埋め立て地が、のちに移転先となる豊洲です。
膨れ上がる東京の人口と迷走する市場移転計画
1963年(昭和三八)、東京の人口は1000万人を超えました。築地市場は500万人の人口を想定した施設でしたから、場内は人と魚と車で溢れ、パンク寸前の状態でした。
そこで、新しく出来た埋立地の一つ、大井埠頭に築地市場を移転する計画が持ち上がりました。築地市場は、移転賛成・反対で紛糾しましたが、67年から79年にかけて都政を担った美濃部亮吉知事が移転に積極的でなかったこともあり、移転話は進まず、時間だけが過ぎていきました。
放置されていた間に大井埠頭の市場移転用地には草が茂り、池ができ、魚やカニ、昆虫など多様な生きものが生息しはじめます。埋立てで行き場を失った渡り鳥も飛来するようになり、いつしか市場用地は市民が野鳥観察に訪れる憩いの場となっていました。
1980年代に入り、鈴木俊一都知事のもと、大井埠頭への市場移転が本格化しましたが、市民からは「自然を守れ」と反対の声が上がりました。話し合いの結果、市場用地の3分の1を野鳥公園にすることで決着。ここに秋葉原にあった神田市場が移転することになり、89年、「大田市場」として開場しました。
移転問題の迷走は続きます。
1980年代半ばのバブル期には築地市場を全面リニューアルする再整備計画が進みましたが、バブル崩壊とともに計画は頓挫してしまいます。
人口は1200万人を超える一方、築地市場の過密化・老朽化は進み、市場の移転は喫緊の課題でした。有明北、豊洲、晴海などの移転候補地から、2001年に豊洲への移転が決まりました。
ところが、豊洲で土壌汚染問題が発覚したことから、またもや移転反対運動が起こりました。新市場の建設工事は遅れましたが、反対運動があったことで、より安全に配慮した対策が進められたともいえるでしょう。
2016年(平成二八)5月、ついに豊洲市場が完成しました。11月の開業は目前。長く混乱した移転話問題に終止符が打たれようとしていた矢先、またもや波乱が起きました。就任早々の小池百合子都知事が、新市場の安全対策の懸念や、建設資金の不透明さを理由に移転見直しを発表したのです。
盛り土問題などが連日ニュースを賑わし、世間には新市場への不信が広がり、大騒動となりました。市場関係者はまた移転賛成・反対に分かれます。
「一度豊洲に移転し、5年後再び築地に戻す」「(築地に)卸売市場を再整備しない」など、都知事の方針がたびたび変わったこともあり、移転は混迷を極めましたが、17年、豊洲移転、築地市場の解体が決まり、豊洲市場は土壌汚染対策の追加工事や地下水管理システムの強化などがなされることになりました。
こうして2018年(平成三〇)10月11日、ついに築地市場は幕を閉じ、豊洲市場が開場したのです。
激変する水産物を取り巻く環境に、いかに対応するか?
豊洲市場は、野菜や果物などの青果物を扱う5街区の青果棟、街の鮮魚店や寿司店などが仕入れに来る6街区の水産仲卸売場棟、国内外から水産物を集め取引を行う7街区の水産卸売場棟。この3エリアからでできています。
総面積は約40万平方㍍。これはキャパオーバーに陥っていた築地市場の約1・7倍の広さです。市場で働く人の数は約1万5000人。トラックなどの運送業、買出し人などを合わせると、1日約4万2000人もの人が出入りしています。
水産物の取扱量は全国の中央卸売市場のなかでもダントツです。年間36万トンの水産物が扱われている巨大市場で、世界的にも頭抜けた存在です。
しかし、水産物をめぐる環境は大きく変化しつつあります。新設備の整った豊洲市場の18年の年間取扱量は36万トンでしたが、00年の築地市場では64万トンも扱っていたのです。なぜ、激減してしまったのでしょう。
理由はいくつかあります。
大量に漁獲されていたサンマ、スルメイカの記録的不漁が続いていること。国際的な資源保護の取り組みでインドマグロなどの入荷が少なくなったこと。世界的な魚食ブームにともない、日本が買い放題だった水産物が、世界のマーケットで買い負けるようになったこと。そして、養殖魚など市場を通さない市場外流通が増えていることも一因です。
漁業法も卸売市場法も改正されました。国際的にも魚を取り巻く環境は大きく変化しつつあります。ハード面では大きく改善された豊洲市場ですが、ソフト面では多くの課題が残っています。それらにいかに柔軟に対応していくか。豊洲市場の真価が問われているのです。
魚河岸の流儀。
魚河岸の流儀。
江戸時代初期に誕生した魚河岸は、明治維新、関東大震災、相次ぐ戦争、高度経済成長、デフレ経済……と、時代とともに場所も目的も大きく変化しました。魚河岸400年の歴史をたどってみましょう。