Web版 解説ノート

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2022年10月20日(木)更新

江戸の食文化を支えた日本橋魚河岸の誕生。

2022年10月20日(木)更新

日本橋魚河岸の始まりと拡大するネットワーク

江戸の食文化を支えた日本橋の魚河岸はどのように誕生したのでしょうか。関東の漁業が盛んになったのは鎌倉時代以降のことです。地域的には伊豆・房総が主で、江戸内湾奥部の開発は遅れていました。

東京名所画帖―江都日本橋之圖の写真
江戸の運送の中心は舟。魚や塩干品も舟によって運ばれた。『東京名所画帖―江都日本橋之圖』写真提供=中央区立京橋図書館

1590年、江戸に入城した家康は城内の台所をまかなうため、ゆかりのあった摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の名主・森孫右衛門ら、34名の漁師を江戸に呼び寄せます。

日本橋本小田原町の河岸地を拝領した彼らには、江戸内湾で自由に操業できる特権が与えられるとともに、獲った魚を城内に納めることが義務付けられました。

家康入城以前から漁業を営んでいた芝、金杉、品川、大井、羽田、生麦、新宿(現横浜市子安)、神奈川の8つの漁村も魚介類を献上したことから、御菜浦(おさいうら)と呼ばれ、税の免除など別格の扱いを受けました。なかでも芝浦は規模が大きく「雑魚場(ざこば)」と呼ばれ、落語「芝浜」の舞台にもなっています。

日本橋魚河岸の誕生は、1610年ごろ、森孫右衛門の長男・九左衛門が、献上した魚の余りを一般に販売する許可を得て誕生したという説が有力です。

乙姫像の写真
日本橋魚市場跡地には乙姫像が設置されている。

初期の魚河岸は、漁師が水揚げした魚を並べて売るという簡素なものでした。やがて摂津から多くの漁業者が江戸に移り、幕府の許可を得て埋め立てた佃島に移住するようになると、漁師は獲れた魚を日本橋の魚問屋に出荷し、魚問屋が売るという漁獲と販売の分業がはじまりました。

1623年、家光が三代将軍に就任する頃になると、参勤交代など幕府の行事が多くなり、それに伴い納入する魚の量も増えてきます。幕府には毎日登城して政務をとる諸役人、約2000人に昼飯を出す習わしがあり、しかも階級の上下によって昼飯の内容が異なるため多種類の魚介を必要としました。なかでも祝儀に欠かせない魚の主役が鯛と鯉でした。納める量が増えるに従い、特に鯛を江戸近隣だけで集めるのが難しくなってきました。

このとき現れたのが、大和屋助五郎です。助五郎は江戸の膨大な鯛の注文に対応できるように駿河と伊豆の18の浦の漁師たちと契約して巨大な竹製のいけすを設備し、1浦あたり約2000尾の鯛を蓄養したのです。

そして、船の中央にいけすを備えた「活船(いけぶね)」を作り、活きた鯛を江戸まで運ぶことに成功しました。いわば流通革命です。やがて助五郎が契約する漁村は、三河湾や瀬戸内海まで広がっていきました。

助五郎は豊富な資金で漁具の購入費、補修費などを網元に貸付ける代わりに、その浦の全漁獲物を引き取るという仕入れルートのネットワークをつくり、魚問屋体制を確立しました。

こうして江戸周辺で獲れた魚が集まる場所だった日本橋の魚河岸は、広域から鮮魚や干物などの加工品が集まる魚市場にスケールアップしていったのです。

町人が経済的に力をつけてきた元禄時代(1688〜1704年)になると、魚河岸は「朝千両の商い」といわれ、江戸を代表する繁華街となっていました。

『江都名所日本ばし』歌川広重(国立国会図書館所蔵)の写真
魚河岸は日本橋川の北側に広がり、魚を求めて大勢の人が往来し、活況を呈した。『江都名所日本ばし』歌川広重(国立国会図書館所蔵)

仲卸業者の登場で進んだ市場の効率化

魚河岸の規模が大きくなると、魚問屋は商売を効率よくするために現代の仲卸業者的存在である「請下(うけした)」を置くようになりました。

はじめ請下は小さな商いでしたが、次第に魚河岸を形成する重要な役割を担うようになります。商売として成り立つようになると、問屋から独立して専業の店が生まれました。

幕府に魚を上納することから始まった日本橋魚河岸ですが、時の流れとともに上納のシステムも変わりました。

当初、幕府への献上は4組の魚問屋が担当していました。幕府の買い上げ価格は相場よりもかなり安いのですが、御魚御用を務めることは名誉なことですから、納魚を取り仕切る責任者は有力魚問屋が担っていました。

しかし、次第に幕府に納める魚の量が増え、しかも、その多くが高級魚となると、市場で売る魚が減り、儲けが少なくなります。しかも幕府の財政悪化するとともに、代金の支払いも滞りがちになってきました。こうなると商売になりません。

魚問屋からの不満の声を受け、1719年、魚問屋組合による直納から、特定の請負人に納魚を任せる「請負人制」に改められました。

請負人は幕府代理として絶対的な権限を持ちますから、大儲けするチャンスがあります。反面、責任は重く、欠品は許されず、損は自己負担することになります。数々の有力な魚問屋が請け負っては消えていき、やがてこの制度は廃止の方向に向かいました。

幕府と魚河岸との信頼関係に成り立っていた魚を献上する伝統が終わりを告げたのは1792年のことです。幕府は江戸橋に「御納屋」と呼ばれる魚納屋役所を設け、役人を配し、半ば強制的に魚を召上げる組織を作りました。自主的な幕府への納魚を廃止し、公定価格で買い取る方式に転換したのです。

買取り価格は市中価格の10分の1ほどでした。このため魚を取り上げられるのが嫌で、魚を隠す業者も現れました。

必要な魚を集められなければ失態となる役人は、魚河岸の事情に精通した者を「買役」として雇い、魚の取立てに当たらせました。この買役が横暴を極め、手鉤を手に魚河岸を巡回し、問屋の蔵や仲買の店先をかき回しては、目にとまった魚を手鉤で引っ掛け、捕り物のように「御用!」とよび収めさせるなど、嫌がらせをしては業者から金をせびる輩もいたそうです。

1814年、改善を図ろうと魚河岸と役所の間に「建継所(たてつぎしょ)」が設置されました。建継所は問屋が魚を仕入れる際に価格の100分の1を積み立てておき、役所からの支払いが魚の値段に合わない場合は不足分を補填するという保険のようなものでした。

しかし、歴史は繰り返します。建継所の事務方はお上の代理人として威張るようになり、御用魚の取り立てに厳しくあたる一方で、袖の下を要求するなど、状況はさらに悪化していきました。

こうして時代は激動の幕末へと向かいます。

魚河岸の流儀。

魚河岸の流儀。

魚河岸の流儀。

江戸時代初期に誕生した魚河岸は、明治維新、関東大震災、相次ぐ戦争、高度経済成長、デフレ経済……と、時代とともに場所も目的も大きく変化しました。魚河岸400年の歴史をたどってみましょう。

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