Web版 解説ノート
2022年11月21日(月)更新
関東大震災の復興計画で実現した築地市場。
2022年11月21日(月)更新
ハイカラに変貌していく帝都と取り残された魚市場
明治維新で社会の仕組みは激変します。廃藩置県、身分制の廃止、徴兵制・義務教育の導入、納税は年貢から税金へ。江戸城は皇居となり、日本橋魚河岸の鮮魚の献上先も宮内省へと変わりました。
明治政府は、近代国家を目指し、道路、鉄道、港などさまざまなインフラ整備に本腰を入れました。なかでも一等地の日本橋は、帝国郵便局や第一国立銀行、百貨店などの建設が進み、ハイカラな街へと変貌していきます。
ところが、魚河岸は昔のままでした。鉄道が発達し、産地から貨車便で魚が送られてくるようになりましたが、日本橋の近くに駅がなかったため、隅田川駅、両国橋駅、汐留駅などで荷を下ろし、馬車やトラックに積み替えて市場に運んでいました。ぬかるんだ地面に藁を敷き、戸板の上に並べられた大量の魚。日本橋川からは腐敗臭が漂うなど、美観、衛生面でも問題が多く、たびたびコレラも流行していました。
1888年(明治二一)に、近代的な首都建設のための都市改造計画「東京市区改正条例」が公布され、日本橋魚河岸は10年以内に箱崎・芝・深川へ移転することが決まりました。
しかし、用地買収費用や施設の建設費など、移転に伴う費用はすべて業者自身の負担だったことに加え、魚河岸の新旧勢力の対立もあり、移転はいっこうに進展しませんでした。
明治半ばからは戦争の時代に突入します。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵……。相次ぐ戦争で日本は大戦景気に沸き、「成金」という流行語も登場しました。
このころ全国に普及したのが「米食」です。日本人といえば米食のイメージですが、それまで白米を食べていたのは市街地が中心でした。それが、農漁村や山間部でも食べるようになり、コメの需要が年々増加していました。
ところが、国の工業化政策で農村部から都市部へと人口が流出したため、コメの生産力は伸び悩み、また、戦争の影響でコメの輸入量も減少しました。
そんななか、兵隊の食糧のために軍部は優先的に米を買い上げ、米商人も投機目的で米を買い占め、地主は高く売ろうと売り惜しんだ結果、極度の米不足となり、価格が高騰して、コメは庶民の手に届かなくなってしまったのです。
しかも、第一次世界大戦が終わったことで大戦景気のバブルがはじけ、大恐慌が日本を襲います。
1918年(大正七)7月に富山県魚津の主婦らが「米よこせ」と立ち上がり、米の県外移出停止、安売りを訴えました。いわゆる米騒動です。
関東大震災で一気に動き出した市場移転計画
米騒動はまたたく間に全国に波及し、焼き討ちが起きるまでにエスカレート。騒動は約50日間にわたり、最終的に参加者は全国で数百万人を数え、鎮圧のために10万人以上の軍隊が投入され、約2万5000人が検挙されました。
深刻な事態を受け、国は公設の小売市場を設けましたが焼け石に水。物価を安定させるには、流通の根本となる卸売の整備が必要だったのです。そこで、公設の中央卸売市場の構想が浮かんできました。
1923年(大正一二)3月、地方公共団体を市場開設者とし、問屋と仲買の仕事を分け、価格はセリで決めるという「中央卸売市場法」が制定されました。
この法を受け、東京市が市場開設にとりかかろうと動いていた矢先の9月1日、大地震が首都を襲いました。190万人が被災、10万人が死亡。町は壊滅的な状態となり、日本橋の魚河岸も焼け野原となりました。
この関東大震災を機に、市場移転計画が一気に動き出しました。
震災の3ヶ月後、海軍が所有していた築地に臨時魚市場が開場され、翌年から帝都復興事業として築地市場の本格的な整備が始まりました。
築地は、大阪から江戸にやってきて、日本橋の魚河岸誕生に一役買った佃島の漁民たちが1657年の明暦の大火災で焼失した浅草御門近くの西本願寺別院の本殿再建の代替地として造成した埋立地ですから、不思議な縁です。
また、関東大震災で発生した大量の瓦礫は埋め立てに使われ、この瓦礫処理で誕生した埋立地のひとつが、現在、中央卸売市場のある豊洲です。
新しい建物は耐震性のある鉄筋コンクリートで、ふんだんにガラスを使ったモダンなデザインでした。扇型に大きな弧を描いているのは、汐留駅から鉄路を延長し、場内まで貨車の乗り入れが可能なように停車スペースを考慮したためです。隅田川側には、3000トン級の船が係留できる桟橋も建設されました。
後年、その先進的なデザイン性が高く評価された築地市場ですが、仲買人組合は設計図を見て、現場を知らない役人の発想だと反発。「扇型では1店舗の面積格差が大きい。しかも、奥まった店は客足が遠のく」と設計変更を求めました。不平等解決策として、数年に1度、抽選で店舗の場所を変えると決まったものの、「魚河岸は日本橋で終わった」と長老たちは嘆いたそうです。
日中戦争が勃発すると、1938年(昭和一三)、「国家総動員法」が公布されました。戦時体制、統制経済のはじまりです。
ガソリン、砂糖、マッチ、足袋・木炭・清酒などが切符制や割当制となり、やがて米・塩・味噌・衣類も配給制になり、国民は耐乏を強いられるようになりました。
魚・野菜などの生鮮食料品には、公定価格が決められました。価格が決まってしまえば、市場のセリは不要になります。
築地市場ができて10年も経たない1941年(昭和一六)、仲買人制度は廃止となり、数千人の仲卸業者が職を失い築地を去りました。生鮮食料品を消費者に十分に供給して、物価を安定させるという社会インフラの一環として始まったはずの中央卸売市場は、戦争遂行を補完する食糧配給機関になってしまったのです。
魚河岸の流儀。
魚河岸の流儀。
江戸時代初期に誕生した魚河岸は、明治維新、関東大震災、相次ぐ戦争、高度経済成長、デフレ経済……と、時代とともに場所も目的も大きく変化しました。魚河岸400年の歴史をたどってみましょう。