Web版 解説ノート

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2 部

2022年8月19日(金)更新

武士も町人も楽しんだ、江戸のハゼ釣り。

2022年8月19日(金)更新

太平の世が生んだニッポンの釣り文化

遊びとしての魚釣りが発達したのは江戸中期です。戦乱の世が終わり平和な時代が続いたこと。透明なテグスが普及したこと。そして、江戸の町に流れる川や掘割、目の前に広がる遠浅で穏やかな内湾。

いくつかの条件が重なり、武士から始まった釣り遊びは、やがて庶民へと広がり、世界でも珍しい大衆文化として花開きました。漆で仕上げた竹竿や浮き、道具箱などは工芸品を超え、美術品の域に達したものまで現れました。

隅田川両岸一覧 首尾松の鉤船 椎木の夕蝉の写真
「隅田川両岸一覧 首尾松の鉤船 椎木の夕蝉」葛飾北斎(国立国会図書館所蔵)

現代の釣りとの違いを見ると、昔の人は釣果を競うだけでなく、趣を大切にしていたといえるでしょう。道具では、現代では曲がらない硬い釣針を使いますが、昔は根掛かりしても仕掛けを失わずにすむ、柔らかめの針を用いました。

昔の釣糸は、道糸は絹や麻、馬の毛で、ハリスはテグスです。テグスとは中国から日本に輸出する薬の梱包に使われた透明な糸のことで、原料はテグスサンという蛾の幼虫の体内にある絹糸腺。この透明な糸を釣糸に応用したのです。テグスは釣りに革命的な進歩をもたらしました。

武将として釣りの楽しさを最初に発見したのは伊達政宗だといわれ、家臣を連れてハゼ釣りに明け暮れていたそうです。本格的な遊びの釣りの記録は万治2年(1659)、松平大和守直矩(なおのり)が江戸湾で行ったハゼ釣り。舟に乗り、琴や尺八の楽曲を楽しみながら釣りをしたそうです。

東都花暦十景 木場魚釣の写真
「東都花暦十景 木場魚釣」渓斎英泉(国立国会図書館所蔵)

元禄の頃から釣りは町人の間でも盛んになり、錦絵にも釣りを楽しむ人々の様子が多く描かれています。釣り人が増えるに従い、釣りの入門書や釣り場のガイドブックの出版も盛んになりました。与謝蕪村は「沙魚釣の小舟漕なる窓の前」と詠み、滝沢馬琴、葛飾北斎も創作の合間に釣糸を垂れていたといいます。

時代は飛んで戦後。釣り好きで有名だった本所生まれの江戸っ子、三代目三遊亭金馬は著書のなかで《日本中のハゼを釣り歩いて食べてみたが、お国自慢というか「ハゼも江戸前にかぎりやす」といいたい》《東京ぐらいハゼ釣の盛んな土地は日本にない》《毎年彼岸の声を聞くと》《東京湾へ流れ出す川口は》《女子供家族連れで、陸張りが何千人というくらいたいへんな人出になる》と『江戸前つり師』に書いています。

本が出版されたのは1962年。東京五輪が開催される2年前のことです。このころまでは、釣り愛好者だけでなく、老若男女がハゼ釣りを楽しんでいました。

しかし、高度経済成長期を迎えると、運河は高速道路となり、海岸は埋め立てが進み、排水で河川や海の水質は悪化。環境は大きく変化していきます。

60年代までの東京湾の釣りはハゼ、キス、カレイが中心でしたが、地先の釣り場が埋め立てで消失したため、沖合にいる魚狙いの船釣りが多くなりました。

70年代まで船釣りの中心的存在だったハゼは80年代半ばに激減し、現在では船釣り客数の比率では1%以下にまで縮小しています。釣れなくなってしまったのです。

魚種別船釣り客数比率のグラフ
参考資料:『東京湾に生きる vol.40』東京湾遊漁船業協同組合(平成31年・令和元年)

なぜ、ハゼは減ってしまったのか。江戸前ハゼの棲み処調査をしている古川恵太さん(NPO法人海辺つくり研究会理事長)に聞きました。

「かつては多摩川河口の羽田沖、旧江戸川河口の三番瀬、荒川河口の三枚洲あたりの深場がハゼの主な産卵場で、2000年のモニタリング調査でも、巣穴がかなりの数と密度で見つかりました。

ところが08年に調査すると、巣穴があった場所の周辺をいくら調べても見つからない。底質も砂泥混じりで水深も変わっていないのに、見当たらないのです。

ひとつ考えられるのは、貧酸素水塊です。ハゼは秋口に深場へ向かいますが、夏場に広がった貧酸素水塊が深場にまだ動かずにあって、産卵場所にたどり着けないのかもしれません。

消えた巣穴。ハゼはどこで卵を産んでいるのか?

ヘドロが海底を覆っていて巣穴が作れないというわけではないと思います。高度経済成長期のほうがヘドロは多く、海底の状態は悪かった。それでもハゼはたくさんいました。ただ、ヘドロの影響で現在、深場が常に貧酸素状態になっていることは考えられます」

東京湾の写真
写真提供/東京都港湾局

しかし、著しく減ったとはいえ、それなりの数のハゼの再生産はされています。ハゼは、どこに巣穴を作って産卵しているのでしょうか?

「調査で見えてきたのは、春から初夏生まれと思われるハゼが目立つことです。春先に釣れはじめる冬生まれが一番子。1ヶ月くらいすると二番子が出てきて、それからまた三番子が現れ、十番子くらいまでいる、とベテランの釣り人は言いますから、おそらく昔からハゼの産卵シーズンは冬だけでなく、通年あったのでしょう。そのなかで成長期に水温が高く、餌も豊富な冬生まれ群が卓越していたので、ハゼの生態の代表格になった。

ところが、そのパターンだと不都合が生じて、生き残れなくなってしまった。だからこれまでマイナーな存在だった遅生まれの群が少しずつ幅を利かせ始めるようになったのかもしれません。

データでも夏なのに小さいのが湧いているのがわかります。モニタリング調査も、冬に産卵すると思っていたので冬に実施しましたが、産卵のタイミングが違ったから巣穴が見つからなかった可能性はあります」

「あと、もう一つ考えられるのは、東京湾奥の横十間川や小名木川などの運河にもかなりの数のハゼがいます。ロックゲートがあるので、運河内は貧酸素水塊や青潮から守られています。

これは憶測ですが、海に下らずに運河のどこかで卵を産んでいる可能性もあります。定説通り、成長するにしたがってハゼは移動するというのなら、一つの場所には同じサイズのハゼが多くなるはずです。でも、運河には大小混じって、しかも数もたくさんいますからね」。

時期をずらしているのか、はたまた運河で産卵しているのか。東京湾のハゼの生態はミステリーですが、少しでも早くハゼに復活してもらいたいものです。

ハゼが教えてくれること

ハゼが教えてくれること

ハゼが教えてくれること

魚屋さんに並ぶこともない地味な魚ですが、昔から日本人は身近に暮らすハゼを愛してきました。ハゼは環境や生物多様性から子育ての男性参加の大切さまで、多くのことを教えてくれます。

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