よしこさんはアジを何匹買ったのか?

受験のシーズンですね。


今回は趣向を少し変えて、算数の問題を解いてみましょう。


ちょっと面白い問題を見つけました。


【問題】
よしこさんは魚屋さんで次の魚をどれも1ぴき以上買い、ちょうど3600円分買いました。
1ぴきあたりの値段はサバ130円、アジ170円、イワシ78円、サンマ104円でした。
さて、よしこさんはアジを何びき買ったことになるでしょうか。


これは約30年前の1992年に実施された「第1回算数オリンピック」で出題された問題です。


問題文で気になるのは、よしこさんの青魚への愛。好きさ加減が半端ではありません。いったいどんな献立だったのでしょう。


そして、30年前とはいえ、一匹の値段にしてはサバがやたら安いですね。


では、解いてみてください。


みなさんが問題を解いている間に雑談でもしますかね。


よしこさんが大好きな青魚は漁獲量の変動が大きいことで知られています。


問題文の青魚4種類の20年前、10年前、最近の漁獲量の推移です。


*農林水産省「海面漁業生産統計調査」(100t単位で四捨五入)
2003年 2013年 2021年
マイワシ 5万2000t 21万5000t 63万4000t
マアジ 24万2000t 15万1000t 9万t
マサバ 32万9000t 37万5000t 44万2000t
サンマ 26万5000t 15万t 2万t

ここでは恣意的にマイワシとしましたが、イワシ類といえばマイワシ、カタクチイワシ、ウルメイワシの3種で、漁獲量的にはマイワシ、カタクチイワシの2種が主役です。


1980年代に約700万トンも獲れたマイワシは90年代に入ると日本近海から忽然と姿を消し、代わりにカタクチイワシやサンマが豊漁になりました。マイワシは高級魚扱いとなり、養殖できないかという話も出たほどです。


ここ数年は姿を消していたマイワシが増え、逆にサンマがまったく獲れなくなってしまいました。


増えたり減ったり、不思議ですよね。


漁獲データは過去100年ほどしかありませんが、それ以前の情報は江戸時代のイワシ問屋の台帳などからおおよその傾向は推測できます。


これによると、マイワシの豊漁期にはカタクチイワシ、マサバ、マアジは不漁で、マイワシが獲れない時期はカタクチイワシ、マサバ、マアジがたくさん獲れるという、一定の周期で海の資源が変動することがわかっています。


この現象は「魚種交替」と呼ばれていて、主な原因は海水温の変化だということです。


10年ほど前(まだマイワシが少なかった頃)、魚類資源の研究者に尋ねたところ「数年のうちにマイワシはより増える」と予測されていたのがまさに的中したのですが、このとき研究者はこうも言いました。


「マイワシが増えると魚種的な多様性は単調になるんですよ」。


どういうことなのでしょう。


マイワシは生まれて2年程度で卵を産むようになります。


マイワシの稚魚は、動物プランクトンだけではなく、植物プランクトンも餌にして成長できる特徴を持っているので、動物プランクトンを餌に成長する他の青魚よりも有利に増えることができるのだそうです。


すると増えたマイワシが動物プランクトンを食べ尽くし、おまけに他の魚の仔魚も餌にしてしまうので、他の青魚は少なくなり、マイワシだけが増えるというわけです。


しかし、本来、寒冷な海を好むはずのマイワシが、海水温が上がっているのにもかかわらず増えているというのは奇妙な話です。


もしかすると水温が低ければ、もっと爆発的に増えたのかもしれません。


ただ、「魚種交替」はあくまで仮説です。


データは主に20世紀以降。江戸時代の文献を含めても約400年しかありません。地球規模で考えれば非常に短いスパンです。


そこで注目されたのが、海底堆積物中のイワシ類の鱗でした。


2017年。愛媛大学の研究チームが衝撃的な発表をしました。


大分県別府湾の海底堆積物中のイワシ類の鱗から、過去2800年の魚の個体数の長期変動を明らかにしたのです。


すると、マイワシとカタクチイワシには数十年ごとの周期変動は度々認められるものの、「魚種交替」を示す時期はわずかしかないことが判明したのです。


むしろ長期の記録からは、どちらも増える時期もあれば、両方減る時期もあるなど、多様なパターンのあることが認められました。


つまり、20世紀に観測された周期的な魚種交替はたまたまだったのかもしれないのです。


20世紀は1970年代にペルー沖のカタクチイワシ資源が崩壊すると日本や南米沖でマイワシが増加し、1990年代にマイワシ資源が崩壊すると今度はカタクチイワシが増加するという世界的な魚種交替が起こっていました。


こうして交替しながらイワシ類は世界に安定供給されていましたが、この研究によると、「私たちが依存している自然環境から得た資源は必ずしも安定的に供給されるものではないということがわかった」(愛媛大学 加(くわえ)研究室 HP)のです。


つまり、数十年間に渡りマイワシもカタクチイワシもいない時代もあるわけです。


もしも、そんな事態が起これば、イワシ類は食料としてだけではなく飼肥料としても重要な位置を占めていますから、世界的混乱が起きるのは必須です。


そうなったら、どうする……こういう問題を解くのは容易ではありません。


それに比べれば、冒頭の算数の問題を解くのは簡単なはず。


さて、いかがです、解けましたか?


サバをx匹、アジをy匹、イワシをz匹、サンマをw匹買ったとすると、130x+170y+78z+104w=3600という方程式は浮かびましたが……。


恥ずかしながらお手上げだったので、塾の講師経験のある友人に助けを求めました。


「問われているのはアジの数だよね。他の魚の数は問題にされていない。なら、注目すべきポイントはアジと他の3種類の魚の値段の違いでしょう」


――170と「130、78、104」の違い?


「逆に130と78と104の共通点ってなんだろう?」


これに気づくと解は自然と導かれるのだそうです。


――だめだ、降参。


答えは130=13×10、78=13×6、104=13×8。


「130、78、104」の共通点はどれも13の倍数ということです。


13の倍数なんて見えづらいですよね。これがすぐに見つけられる人は数のセンスがいい人なんですかね。


一方、170は13の倍数ではありません。170÷13=13…1。13あまり1。


アジを買わずにサバとイワシとサンマの3種類を買ったとすると、それぞれの値段は13の倍数ですから、どんな組み合わせでも合計金額は13で割り切れます。


で、もしもサバ、イワシ、サンマに加えてアジを1匹買ったとすれば、合計金額を13で割ったあまりは1となります。


例えば、すべて1匹ずつ買った場合、サバ130円+イワシ78円+サンマ104円+アジ170円=482円。これを13で割ると37…1。


あまりは1です。


サバ、イワシ、サンマを100匹ずつとアジを1匹でも、合計金額を13で割るとあまりは1です。


もうお分かりになった方も多いと思いますが、サバ、イワシ、サンマを1匹ずつで、アジだけ2匹買ったのなら130+78+104+(170×2)=652。これを13で割ると50…2。


あまりは2です。


このようにアジを1匹購入するごとにあまりも1ずつ増えていく。つまり合計金額を13で割ったあまり=アジの数なのです。


問題の合計金額は3600円ですから……


3600÷13=276…12。


あまりが12ということは、買ったアジは12匹だとわかるのです。


他の魚の数も気になりますが、これは複数の組み合わせが可能(たぶん25の組み合わせ)で、例えばサバ1・イワシ17・サンマ1匹でも、サバ2・イワシ6・サンマ8匹でも、サバ9・イワシ1・サンマ3匹でも、アジ12匹と合わせると3600円になります。


ちなみにアジが25匹でもあまりは12ですが、この場合アジだけで170×25=4250と3600円を上回ってしまいます。


ということで答えは12匹なのです。


*参考資料
算数オリンピック委員会HP
愛媛大学加研究室HP

泥濘(ぬかるみ)の食卓、または
一人の女と文豪二人と第三の男。

お正月にふさわしい魚といえば、やはり鯛でしょうか。


健啖家だった谷崎潤一郎(1886〜1965)の作品にはよく食べ物が登場します。魚介類でいえば鱧、鮎と並んで多いのが鯛でしょう。


《幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答えて貞之助に可笑しがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説に依ると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。》(谷崎潤一郎『細雪』)


女好きの男嫌いで文壇の付き合いを好まなかった谷崎ですが、6つ年下の芥川龍之介(1892〜1927)、佐藤春夫(1892〜1964)とは仲よしでした。


(谷崎と佐藤は1935年に創設された「芥川賞」の選考委員を初回からつとめています)


30歳ですでに新進気鋭の作家として名を馳せていた谷崎が芥川、佐藤と知り合ったのは1917年(大正6)の夏。芥川の最初の短篇集『羅生門』の出版記念会の発起人になってもらおうと2人が谷崎に会いに行ったのがはじまりです。


3人は意気投合し、佐藤は谷崎の紹介で翌年「中央公論」に『李太白』を発表します。


これは唐代の詩人・李白が酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ちて溺死したという伝説をもとに、李白が「星」になるというお話です。


2ヶ月以後、谷崎は『魚の李太白』を発表します。チリメン細工の「鯛」が李白だったという童話のようなお話で、佐藤のデビュー祝いに贈ったものでした。


12年後、谷崎は妻の千代を佐藤に贈ります。


これが世間が眉をひそめた、いわゆる「細君譲渡事件」です。


この事件の真相……もう一人の作家が事件に絡んでいたことが明らかになったのは1988年(昭和63)、谷崎の死後23年も秘密にされていたのです。


奇妙なことに真相を伝えた「文學界」の記事はまったく話題になりませんでした。文壇ゴシップが大好きな瀬戸内寂聴さんですら気づかず、

《私は寡聞にしてそんな話を知らなかった。それほどの事が発表されているにかかわらず、これまで、その事実が、だれにも問題にされなかったことが不思議で異様である》(瀬戸内寂聴『つれなかりせばなかなかに』)


《谷崎ほどの作家になれば、書簡が見つかった、未発表の作品が見つかったといって新聞種になるのに(中略)当時新聞もまったく取り上げていない》(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)


そのため今でも「細君譲渡事件」をシンプルに谷崎→佐藤と思い込んでいる人は少なくありません。


つい最近まで私もそうでした。


……というわけで、谷崎、佐藤、そして第三の男のスキャンダラスな恋愛模様をたどってみましょう。いやあ、ドロ沼ですよ〜。


谷崎潤一郎は生涯で3回の結婚をしています。


最初の結婚は1915年(大正4)、29歳のときでした。


学生時代から出入りしていた3歳年上の料亭の女将・初子にぞっこんだった谷崎は結婚を申し込みますが、「旦那(パトロン)がいるからダメ」と振られ、「うちの妹はどう?」と紹介された千代と結婚します。


千代との間に一女をもうけるも、結婚はうまくいきませんでした。谷崎には家庭的な千代は平凡で退屈だったのです。そして谷崎は千代の妹でまだ15歳のせい子に入れあげ、同棲をはじめます。


せい子をモデルに生まれたのが、ナオミという自由奔放な娘が自分に惚れた中年男を翻弄する小説『痴人の愛』でした。


谷崎家に出入りしていた佐藤春夫は千代に同情します。


同情は恋の始まりといいますが、佐藤も妻・香代子と春夫の弟・秋雄が通じていることを知り、メンタル的にどん底でした。


妻を寝取られた男と夫のDVに耐える妻。妻と別れた佐藤は千代と深い仲になります。


1921年(大正10)、谷崎は「せい子と結婚するので、千代と娘をよろしく」と佐藤に約束しますが、せい子に結婚を断られると、「やっぱ、あの話なし!」と約束を反故にします。


激怒した佐藤は谷崎と絶交(小田原事件)。千代への思いを綴った作品を続々と発表します。有名なのが「さんま苦いか 塩つぱいか」の『秋刀魚の歌』です。


千代への手紙は、こんな感じです。


《私はよく自分で死ぬことを考へる。――ほんとうにあなたなしに私はどうして生きて行けばいいのだろう》《あなたがそばに居てくれない一生は、僕にとつて結局それだけで破滅なのだ》(小谷野敦『谷崎潤一郎伝』)


そんな佐藤ですが1924年(大正13)に芸者・タミと再婚。しかし2年後にタミの従妹・きよ子と恋愛事件を起こします。


「あなたのしていることは谷崎と同じじゃないの」とタミに説教された佐藤は「ようやく谷崎の気持ちが分かった」と谷崎と和解します。


……ツッコミどころ満載ですが、先に進めましょう。


小田原事件から10年後。


1930年(昭和5)、「千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り」という谷崎・佐藤・千代3人連名の挨拶状が配られ、各新聞は「細君譲渡事件」としてセンセーショナルに報じました。


その経緯は長い間、夫婦間の冷え切っていた谷崎が佐藤に持ちかけたとされ、谷崎の代表作の一つ『蓼喰ふ虫』に登場する夫公認の妻の愛人のモデルも佐藤春夫だと考えられてきました。


事件から60年後、「細君譲渡事件」の前に谷崎が別の男と千代を結婚させようと画策していたことが谷崎の末弟により明らかにされました。


相手は千代より8つ年下の和田六郎、のちの推理小説家・大坪砂男(1904〜1965)。『蓼喰ふ虫』のモデルは佐藤ではなく大坪だったのです。


大坪砂男の名前は今ではあまり耳にしませんが、江戸川乱歩(1894〜1965)が命名した「探偵小説界の戦後派五人男」の一人です(他の4人は『ゴジラ』の香山滋、『事件記者』の島田一男、『白昼の死角』の高木彬光、『甲賀忍法帖』の山田風太郎)。


1924年(大正13)頃から谷崎家に出入りするようになった大坪は裕福な家庭に育ったイケメンで頭の回転もよく話上手な好青年。2年後、千代と大坪は急速に接近します。


谷崎は2人の仲を黙認、むしろそそのかすように振る舞いました。


しかし突然、大坪は姿を消します。


理由は佐藤が大反対して結婚を阻止したとも、大坪がいまだに昔の恋人・佐藤を頼る千代に嫌気が差したともいわれています。


谷崎は千代と別れて女中の絹枝と結婚するつもりでしたが、佐藤と千代の猛烈な反対にあって話が流れると、翌年20歳年下の女性記者・丁未子(とみこ)と再婚します(2年で破局)。


谷崎はこのとき3番目の妻となる子持ちの人妻・松子(『細雪』の次女・幸子のモデル)とも密かに関係を持っていたといいます。


……すでに胸焼けものですが、修羅場は続きます。


消息を絶った大坪は親の遺産で放蕩三昧の日々を送り、その後、薬学の知識を活かし警視庁刑事部鑑識課に勤務するものの上司の妻・徳子と恋仲になったことが原因で退職。


株屋や画商をしながら遺産を使い果たした大坪は、やはり「作家になりたい」と徳子と子どもとともに長野県の佐久に疎開している佐藤春夫のもとを訪ねます。そこには千代もいるのにです。


小田原事件から24年ですから佐藤と千代も初老。


しかし50歳を過ぎても佐藤は枯れておらず、近所に疎開してきた人妻に熱をあげ、毎日のようにラブレターを出していました。


おまけに若くて美しい大坪の妻・徳子を「のりさん、のりさん」と佐藤が可愛がるので、癪に障った千代は「才能のある大坪を一人前の作家にできないのはアナタが悪い」と徳子に厳しく当たります。


ちなみに大坪は大坪で、東京で別な女性との間に子どもをつくっていますから、なんかもうメチャクチャです。


佐藤の大坪の小説への評価は「筋は立てられるが、描写が出来ない」と厳しいものでしたが大坪はようやく佐藤のめがねにかなった作品を書き上げます。


1948年(昭和23年)、推理小説雑誌「宝石」に『天狗』を発表。


江戸川乱歩から高く評価された大坪ですが、寡作でしかも短編しか書けなかったために暮らしは窮乏し、やがて前借りしては踏み倒し、日本探偵作家クラブのカネを使い込むなどして1957年(昭和32)に表舞台から姿を消しました。


その後、大坪はゴーストライターとして、同じ佐藤春夫門下の柴田錬三郎に『眠り狂四郎』シリーズなどのプロットを提供しては小銭を稼いでいたといいます。


千代という一人の女性と交錯した2人の文豪と推理小説の鬼才。3人の作家は不思議なことにほぼ同時期にこの世を去っています。


1964年5月、佐藤春夫は自宅でラジオ番組収録中に心筋梗塞で倒れ逝去。享年72。同年10月の東京五輪開会式では彼の作詞した「オリンピック東京大賛歌」が歌われました。


1965年1月、大坪砂男は肝硬変に胃がんを併発し、ひっそりと世を去りました。享年60。痛み止めの注射なども含め一切の治療を拒否し、野武士のような最期だったといいます。


1965年7月、谷崎潤一郎は腎不全に心不全を併発して死去。享年79。


谷崎の死は3番目の妻・松子の連れ子(戸籍上は松子の妹・重子の養子)の嫁、つまり義理の娘かつ姪である千萬子をモデルに、フェチズムとマゾヒズムと老人の性欲を描いた『瘋癲老人日記』を発表した3年後のことでした。


『瘋癲老人日記』の老人=谷崎は食欲旺盛で、ここにも鯛、鱧、鮎が登場します。


《予ハ滝川ドウフノ他ニ晒シ鯨ノ白味噌和エガ欲シクナッテ追加スル。刺身ハ鯛ノ薄ヅクリ二人前、鱧ノ梅肉二人前。鯛ハ婆サント浄吉、梅肉ハ予ト颯子デアル。焼キ物ハ予一人ダケガ鱧ノ附焼、他ノ三人ハ鮎ノ塩焼、吸物ハ四人トモ早松ノ土瓶蒸シ、外ニ茄子ノ鴫焼。

「マダ何カ喰ッテモイヽナ」

「冗談ジャナイ、ソレデ足リナインデスカ」》(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)


戦前は「ブルジョワだ」、戦時中は「時局をわきまえない」、戦後になると「封建的だ」と批判され、ときには発禁処分を受けながらも、コロコロと変わる世間に同調することなく、谷崎はひたすら己の欲望と向き合いました。


《谷崎の生涯はまさしく、私たちにとって根源的な欲望である〈性慾〉との格闘で、それをいかに藝術的に昇華させるかの歴史だったことに気づかされる》(千葉俊二『谷崎潤一郎 性慾と文学』)


《谷崎潤一郎は「食魔」と呼ばれる恐るべき美食家でもあった(中略)見苦しく醜悪なほどに食べ続け、同時にそんな自分を冷徹な目でみつめ続けてきた》(坂本葵『食魔 谷崎潤一郎』)


《人の快楽を是認し、人の悪を是認し、自らの肉欲のなかに潜む怪物を飼いならす決意は、とどのつまり、人間の自由の獲得であった》(嵐山光三郎『文人悪食』)


『昭和ミステリー大全集(上)』には佐藤春夫の『指紋』、谷崎潤一郎の『途上』、大坪砂男の『天狗』と3人の作品が仲よく収められています。


事実は小説よりも奇なり。ミステリー小説よりも3人の恋愛譚のほうがはるかにミステリアス、いやむしろホラーだと思うのは私だけでしょうか。


◎追記
千代は1981年(昭和56)に84歳で大往生。初期の谷崎文学に大きな影響を受けた江戸川乱歩は谷崎の亡くなる2日前に死去している(享年70)。


*参考文献
『つれなかりせばなかなかに』瀬戸内寂聴/中央公論社
『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』小谷野敦/中央公論新社
『谷崎潤一郎 性慾と文学』千葉俊二/集英社新書
『食魔 谷崎潤一郎』坂本葵/新潮新書
『文人悪食』嵐山光三郎/マガジンハウス
『推理文壇戦後史』山村正夫/双葉社
『昭和ミステリー大全集』(上)新潮文庫
『天狗』大坪砂男/国書刊行会

野球とフィレオフィッシュとアメリカンドリーム

2023年、テキサス・レンジャーズが球団創設63年目にして、ついにワールドチャンピオンになりました。12年前にはあと1球という惜しいところで逃してしまいましたからね。


今季からレンジャーズを率いたブルース・ボウチー監督(1955〜)はこれでワールドチャンピオン4回(史上6人目)、両リーグで世界一(史上3人目)を達成。


しかも、最初に監督をつとめたサンディエゴ・パドレスでもナ・リーグを制覇(1998年)していますから、異なる3球団をリーグ優勝に導いたわけで、これは長いメジャーの歴史のなかでも唯一の記録です。


というわけで、今月はスケトウダラのお話です。


ボウチー監督はプレーヤーとしても1984年、パドレス時代にワールドシリーズを経験しています。


野球にはチームに貢献した選手の栄誉を讃える永久欠番というものがありますが、パドレスの欠番扱いに「レイ・クロック」の名前があるのをご存じでしょうか。


レイ・アルバート・クロック(1902〜1984)


ソフトバンクの孫正義さんも、ユニクロの柳井正さんも尊敬する辣腕経営者……みなさんご存じ、ハンバーガー・チェーン「マクドナルド」の創業者です。


シカゴに生まれたレイは高校を中退すると、クラブでのピアノ弾き、不動産業、紙コップ、家具、ミキサーのセールスマン……とさまざまな職については猛烈に働きました。


《クロックは自分を信じ、自分だけのアメリカンドリームがあると信じていた。もし夢に向かって懸命に努力を続ければ、ある日、ぱっと稲妻が走り、金と成功を掴むことが必ずできるのだと。》(『ザ・フィフティーズ』)


カリフォルニアでマクドナルド兄弟が営む画期的なアイデアのハンバーガー店の存在を知ると「このシステムは全米展開、いや世界に通用する」とフランチャイズの代理人となって働き、やがて巨額の借金をして買収したのはレイが50歳のときのことですから遅咲きの苦労人です。


2017年に公開された映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(マイケル・キートン主演)では、マクドナルド兄弟=純朴、レイ=金の亡者みたいに描かれていましたが、話はそう単純ではありません。


ただ、将来のビジョンの違いは決定的でした。


《「私は金を崇拝したこともないし、金のために働いたこともない。ただ自尊心と達成感のために働いてきた。金は厄介な代物だ。手に入れるより、追いかけている方がずっと面白い。 面白いのは、ゲームそのものだ」》(『ザ・フィフティーズ』)


《「仕事ばかりし 遊ばなければ人間駄目になる」という格言があるが、私はこれには同意しない。なぜなら、私にとっては、仕事が遊びそのものだったからだ。》(『成功はゴミ箱の中に』)


大谷翔平選手は運を掴むために落ちているゴミを拾うといいますが、レイも店の敷地に落ちているゴミがあれば率先して拾い、従業員にも清潔、丁寧な接客、品質管理、スピードを徹底的に求めました。


仕事以外には何の興味もないレイでしたが、野球だけは例外で、チームのオーナーになるのは昔からの夢でした。


(野球好きだったレイは、1932年のワールドシリーズ「ヤンキース対カブス」戦のチケットを買うために朝の2時から球場に並び、その試合でベーブ・ルースの予告ホームランを目撃しています)


大成功を収めたレイは、球団創設から6年連続で最下位に低迷しているサンディエゴ・パドレスがワシントンD.C.へ移転するという話を聞きつけ、球団買収に動きました。


こうして1974年、72歳のときに念願のメジャーリーグのチームオーナーとなったのです。


サンディエゴ市民も町に球団を残してくれたレイを大歓迎しました。


観客動員数をみると、1969〜73年の5年間の平均が59万4000人なのに、レイが球団を買収した74年には107万人と100万人を突破し、チームは相変わらず最下位争いなのにもかかわらず5年目には160万人を達成しています。


さすが、凄腕経営者、球団運営もうまかったのですね。


さて、マクドナルドの定番メニューの一つに「フィレオフィッシュ」があります。


アメリカで最もフィレオフィッシュが売れているのはハワイ州で2番がオハイオ州。フィレオフィッシュはこのオハイオ州で誕生しました。


オハイオ州シンシナティでマクドナルドのフランチャイジーとして店をはじめたルー・グルーンは頭を抱えていました。


この地域の住民の87%はカトリック教徒だったのです。


カトリック教徒には毎週金曜日と、四旬節(早春に行われる40日間の悔い改めの期間)は肉を食べるのを控える習慣があります。


つまり、これらの日はハンバーガーを口にしないので、店の売上げが激減するわけです。


このままではまずいぞ。


自身もカトリック教徒だったグルーンが考えたのが、肉の代わりに魚の切り身のフライを挟んだ「フィレオフィッシュ」でした。


しかし、販売するにはマクドナルド本社の許可が必要です。グルーンはシカゴのレイを訪ねプレゼンしましたが、「店が魚臭くなるからダメ」と却下されます。


NOの理由はもうひとつあって、実はレイにも独自の肉抜きサンドのアイデアがあったのです。


それはレイの大好物、スライスしたパイナップルの上にチーズを載せて焼いたものを挟んだ「フラ・バーガー」でした。


粘り強く交渉を続けるグルーンにレイは自信満々にこう申し出ます。


「わかった、ルー。金曜日にきみのフィレオフィッシュと僕のフラ・バーガーの2つをメニューに加えてみよう。で、売れたほうを正式に採用しようじゃないか」


こうしてある金曜日、どちらが売れるかのテスト販売が行われました。


結果は「フィレオフィッシュ」の売り上げ350個、「フラ・バーガー」は6個。


レイは素直に完敗を認めます。


《庶民感覚を持ち続けた実業家、それがレイ・クロックだった。大衆の嗜好を先取りする本能があるのだと誇らしげに語っていたが、たしかに誇るだけのことはあったし、見通しが外れることは稀だった。》(『ザ・フィフティーズ』)


そんな稀な例のひとつがこの「フラ・バーガー」事件でした。


ただ、もとのレシピの原料はオヒョウでしたが、価格が高くなるためスケトウダラに変更となり、さらにもうひと工夫ということでスライスチーズを加えることになりました。


こうして1963年、フィレオフィッシュはマックの定番メニューとして登場したのです。


フィッシュバーガーを提供しているハンバーガー・チェーンは他にもあります。どんな魚を使っているのでしょう。


主なハンバーガー・チェーンのサイトで原材料を見ると、マクドナルド、バーガーキング、ドムドムバーガーは「スケトウダラ」。モスバーガーは「ホキ」。フレッシュネスバーガーは「ホキ」と「シロイトダラ」を使っているようです。


スケトウダラは白身フライやすり身など加工品の原料になるのがメイン。


鮮魚で流通することは少ないので鮮魚店で尾頭付きを見ることも生食するのも稀なのですが、北海道の居酒屋で一度だけ、ルイベにしたものを食べたことがあります。


マダラみたいなものだろうと予想していたのですが、口の中で溶けると、ものすごく甘みがあって驚いた記憶があります。


レイ・クロックの話に戻りましょう。


81歳で死去するまでレイはパドレスのオーナーを務めました。


亡くなったのは1984年1月。


そのシーズン、チームは奇跡を起こします。


1969年の球団創設以来、ほぼ毎年最下位争いをしていた弱小チームのパドレスが大方の予想を覆してまさかまさかの快進撃。球団史上初めてナ・リーグを制覇したのです。


(このときブルース・ボウチーは控えの捕手でした)。


ワールドシリーズではデトロイト・タイガース*に敗れましたが、チームはレイのイニシャル“RAK”を永久欠番と同格の欠番扱いとして、その功績を讃えたのです。


最後にエピソードをもうひとつ。


1918年、16歳のレイは年齢を詐称して第一次世界大戦に陸軍に志願しています。配属された衛生隊で同じシカゴ生まれで一つ年上の男と出会いました。


《私の配属された隊は、訓練のためにコネティカット州に集まり、そこでもう一人、年齢を偽って入隊していた人物に出会った。私たちが休日には街へ繰り出して女の子を追っかけ回している間も、彼は宿舎に残り、絵を描いていたことから、変わり者呼ばわりされていた》(『成功はゴミ箱の中に』)


その変わり者と呼ばれていた男こそ、ウォルト・ディズニー(1901〜1966)でした。


つまりですよ、その後一人は「地球上で一番ハッピーな場所」で、もう一人は「ハッピーセット」で大成功したというわけです。


では、来年もみなさんがハッピーに過ごせることを祈って、よいお年を!


◯追記
タイガースのオーナーはこの年、球団を買収してオーナーとなった孤児院育ちの実業家、宅配ピザ「ドミノ・ピザ」の創業者トーマス・モナハン(1937〜)でした。奇しくも1984年のワールドシリーズはファストフードのオーナーの新旧対決となったのです。


*参考文献
『成功はゴミ箱の中に』レイ・クロック/プレジデント社
『ザ・フィフティーズ』デイヴィッド・ハルバースタム/新潮OH!文庫
『ファストフードが世界を食いつくす』エリック・シュローサー/草思社文庫