今年3月に行われた第5回ワールド・ベースボール・クラシックの決勝「日本対アメリカ」戦の最終回、大谷翔平VSマイク・トラウトの対決にはしびれましたね。
野球の本質とは何か。アメリカの作家ジョン・アップダイクはテッド・ウイリアムズの引退試合観戦記にこう記しています。
《数あるチームスポーツの中でも、野球こそは、その優美な間断のある動き、白い姿で立つ佇む男たちをまばらに配した広大で静かなグラウンド、そしてその冷ややかな数学的側面も含めて、一匹狼を受け入れ、一匹狼という花を添えられるのに最も適しているように思える。それは本質的に孤独なゲームなのだ》
《我々の世代が目にした中で、かくも濃密にこのスポーツの痛切さを抱え込み、かくもたゆみなく、天性の技術を磨き続け、見ていて喜びに息が詰まるほどの集中力を持って、一打席一打席に持てる能力のすべてを注いだ選手は他にいない》(「ボストンファン、キッドにさよなら」)
いやあ、ホント、息が詰まりました。
WBC決勝戦が行われた「ローンデポ・パーク」はマイアミ・マーリンズ(カジキ)の本拠地でした……というわけで、今日はカジキのお話です。
カジキといえば、やはりアーネスト・ヘミングウェイ(1899〜1961)の『老人と海』でしょうか。
みなさんご存じ、巨大カジキと老漁師との戦いの物語です。
この巨大カジキ、原文には“marlin”としか書かれていませんが、何カジキだったか気になりませんか?
「マカジキ」と訳している本が多いのですが、「(一社)責任あるまぐろ漁業推進機構」のサイトにある鈴木治郎氏(旧遠洋水産研究所浮魚資源部長)のコラム「“老人と海”に出てくるカジキの種類について」に、なるほどという答えがありました。
巨大化するカジキには何種かあるものの、
マカジキ…………大西洋には分布しない。
シロカジキ………大西洋には分布しない。
ニシマカジキ……大西洋にも分布するが、1500ポンド(約680㎏)まで巨大化するとは考えにくい。
メカジキ…………大西洋にも分布し、巨大にもなるが、英語では“swordfish”で、“marlin”とは言わない。
《とすると、老人の釣り上げたカジキはクロカジキしかないのではないかと私は想像している》
ちなみに英語では死ぬ直前に体色が鮮やかな青になることから“Blue marlin”と「青」ですが、和名ではその後「黒」くなることから“クロカジキ”と呼ぶのだとか。
小説では、サンチャゴ老人は大海原でクロカジキと戦いながら、まるで神と対話するようにニューヨーク・ヤンキースのジョー・ディマジオ(1914〜1999)に語りかけます。
ベーブ・ルースが引退した翌年(1936)にデビューしたジョーは、走攻守三拍子揃った才能、人に苦痛や怒りを見せないタフぶり、エレガントな動きや着こなし、ファンや報道陣への紳士的な対応などで人々を魅了し、たちまちスーパー・ヒーローとなります。
しかも、ジョーはシチリアから移民してきた貧しい漁師の子どもですから、まさにアメリカン・ドリームの体現者。
《おれだってディマジオに笑われんようにしなきゃ》
《さっきの、サメの脳天への銛の一撃。あれをディマジオが見ていたら、感心してくれたかな》
《おまえはそもそもが、漁師になるために生まれたんだ、魚が魚になるために生まれたようにな。聖ペテロだって、あのディマジオの親父さんだって、漁師だったんだ》(『老人と海』)
次々と襲いかかる困難に、決してあきらめることなく、気力、体力、知力を振り絞って立ち向かう……これはサンチャゴであるとともに、「新移民」と蔑視されたイタリア系移民の最初のスターといってもいいディマジオに重なります。
《「だが、人間ってやつ、負けるようにはできちゃいない」老人は言った。「叩きつぶされることはあっても、負けやせん」》
《「闘う」老人は言った。「死ぬまで闘ってやる」》(『老人と海』)
ディマジオはヘミングウェイの歳の離れた友人でした。
一緒にボクシングを観戦したときのこと、ジョーにサインを求めるチビっ子ファンに取り囲まれ、「おじさんも有名人なんだろ?」と少年に尋ねられたヘミングウェイは「ああ、ディマジオのお医者さんだよ」と答えたといいます。
《ディマジオはヘミングウェイが思い描いていたヒーローの条件を完全に満たしていた。ヘミングウェイの小説に登場する空想のヒーローたちは、プレッシャーの下でも優雅に振る舞う。感情をあらわにすることはなく、ひたすら行動によってのみ己を語る。ディマジオはまさにそういう種類のヒーローだった》(デビッド・ハルバースタム『男たちの大リーグ』)
満身創痍のジョーは1951年末に引退。翌52年、ジョーの跡を継ぐミッキー・マントルを軸に4連覇を目指すヤンキースと初の黒人選手ジャッキー・ロビンソンが躍動するドジャースが激突するワールドシリーズ直前の9月に『老人と海』は出版されました。
カジキは長く尖った吻(ふん)を、バットのようにするどくスイングして獲物を叩き、弱ったところを捕食します。
あえて深読みすれば、巨大カジキ=偉大な打者です。そのカジキの壮絶な死……。
『老人と海』は引退した友人に向け、時が流れてもみんな君を忘れないぞと贈った讃歌とも読めるのではないでしょうか。
『老人と海』はヘミングウェイの生前に刊行された最後の作品になりました。
さて、ジョーの好敵手、冒頭にあげたボストン・レッドソックスのテッド・ウイリアムズ(1918〜2002)は野球とともに釣りをこよなく愛しました。
シーズンが終わると、フロリダの田舎町で3ヶ月半の釣り三昧。スプリング・キャンプが始まると釣りを封印して練習に励み、開幕を迎えるというルーティン。
バッティングと同様、釣りの研究も熱心だったテッドは、サンチャゴ老人には及ばないものの、400ポンド(約181kg)のカジキを釣り上げています。
テッド・ウイリアムズの通算成績(19年)=打率.344、521本塁打、1839打点。首位打者6回、本塁打王4回、打点王4回、三冠王2回、MVP2回。
ジョー・ディマジオの通算成績(13年)=打率.325、本塁打361本、1537打点。首位打者2回、本塁打王2回、打点王2回、MVP3回。
両者の記録を調べていて驚いたのが、選球眼を評価する指標BB/K(四球÷三振)の高さです。
あまり語られることのないBB/Kですが、パワーヒッターでありながら、通算成績テッド2.85、ジョー2.14。
この数字、現代のスーパースターはどうかというと、マイク・トラウト0.68*、大谷翔平0.42*、アーロン・ジャッジ0.52*。
歴代でもベーブ・ルース1.55、ハンク・アーロン1.01、バリー・ボンズ1.56、ミゲル・カブレラ0.60*ですから、2人の数字は異次元です。(*2022年までの数字)
ただ、2人の打席へのアプローチは異なっていて、ジョーがチームの主軸打者として、「ときにはボール球を打つ義務がある、四球だけでは不十分」と信じていたのに対し、テッドは「ボール球を打ち始めたらキリがない、悪球に手を出させたら投手の勝ち」という考えでした。
その結果ともいえるのが、ジョーの56試合連続安打、テッドの84試合連続出塁という大記録です。
オールスターゲームにテッドは16回、ジョーは9回選出され、ライバル2人は4度(41,42,47,49年)アメリカン・リーグの3・4番を担いました。
ともに球史に残る名選手ですが、所属チームの力の差は歴然でした。
ジョーが在籍した13年間でヤンキースは10回リーグを制覇し、ワールドチャンピオンに9回輝いています。
一方、テッドが在籍した19年間でレッドソックスがリーグを制覇したのは1946年の1度きり。そのワールドシリーズでもカージナルスに3-4で敗れています。
もう一つ、テッドがジョーとまるで違ったのは、その振る舞いです。
デタラメを書く新聞記者に唾を吐きかけ、汚いヤジを飛ばす観客ともしょっちゅう揉め事を起こしました。ネクタイが大嫌いで、頑固で安易な妥協をせず、帽子をとってファンに挨拶することさえ、芝居がかっていると拒否しました。
選手人生が終わる引退試合の最終打席。
テッドは3球目をフルスイングして満員のフェンウェイパークのスタンドにボールを叩き込むと、いつも通り笑み一つ浮かべず、うつむき加減にダイヤモンドを急ぎ足で一周します。
球場全体が狂喜の大歓声、カーテンコールを求める絶叫に包まれても、立ち上がることはありませんでした。チームメイトや審判にも促されましたが、「俺らしくない」と。
冒頭にあげた観戦記でアップダイクはこの瞬間を《神々は手紙に返事を出したりはしないのである》と記しています。
デビッド・ハルバースタムもこう書いています。
《インスタント有名人の多くがプラスチックの板から切り抜いたように薄っぺらく見える時代にあって、テッド・ウィリアムスは、良きにつけ悪しきにつけ、長所も短所もひっくるめて、際立っていた。ウィリアムスは、本物以外の何物でもないのだ》(『男たちの大リーグ』)
実はテッドは自伝のなかで『老人と海』について、ちょっとだけ触れています。
《私がかつて読んだヘミングウェーの「老人と海」だって、話はだらだらと続いているから、勘弁して聞いていただきたい》(『大打者の栄光と生活』)
ヘミングウェイの文章をだらだらだなんて、テッド・ウイリアムズにしか言えませんね。
*参考文献
『アップダイクと私』ジョン・アップダイク/河出書房新社
『老人と海』アーネスト・ヘミングウェイ、高見浩=訳/新潮文庫
『大打者の栄光と生活』テッド・ウイリアムズ/ベースボール・マガジン社
『バッティングの科学』テッド・ウイリアムズ/ベースボール・マガジン社
『男たちの大リーグ』デビッド・ハルバースタム/文春文庫
生シラス(カタクチイワシの稚魚)、シラウオ(白魚)、シロウオ(素魚)、ノレソレ(アナゴの稚魚)……春は透明な魚のオンパレードです。
からだが透明であれば捕食者に見つかりにくいのに、なぜ成長するにつれて色がつくのかというと、色素で防御しないと有害な紫外線にやられてしまうからなんですって。
そう聞くと、UVカットの日焼け止めクリームを塗ろうかって思いますね。
桜が咲き始めると「そろそろ終わりかな」と居酒屋の主人が出してくれたシラウオ。今日は「シラウオ」のお話をしましょう。
シラウオを最も漁獲しているのは小川原湖のある青森県で、全国漁獲量の約半分を占めています。次いで霞ヶ浦のある茨城県、そして宍道湖のある島根県と続きます。
早春のイメージのあるシラウオですが、小川原湖では4月〜6月の春漁と9月〜翌3月の秋漁があり、霞ヶ浦北浦では7月末〜12月、宍道湖は11月中旬から5月までと、全国的にはほぼ通年どこかで漁獲されているようです。
かつてシラウオは江戸を代表する魚でした。
月も朧(おぼろ)に白魚の 篝(かがり)もかすむ 春の空
佃島の漁師が夜の隅田川で篝火を焚きながら四ツ手網ですくい捕り、「御用」と書かれた漆塗りの箱の中に入れて、将軍家に献上していたと思っていたのですが、これは正確ではありませんでした。
佃島の漁師だけでなく、別に「白魚役」という漁師もシラウオを献上していたのです。
「白魚役由緒書」によると慶長6年(1601)、家康が鷹狩のときに浅草川(現 隅田川)で漁師がシラウオを献上したのがきっかけとなり、それ以降シーズン中はシラウオを毎日献上するように命じられ、褒美として毎年3両賜ったとあります。
「白魚役」には最もいい漁場である隅田川の浅草言問橋から河口まで独占的にシラウオ漁をする権利が認められ、そこには佃島の漁師も立ち入ることはできませんでした。「白魚役」には幕府から京橋小網町に屋敷も与えられています。
言うまでもなく佃島の漁師は、家康が入府のときに大阪から招聘した関東の漁師にはない卓越した漁労技術を持つエキスパート集団。なにかにつけて優遇された存在でした。
にもかかわらず、花のお江戸の一等地でシラウオを獲ることができなかったとは少々意外でした。
白魚役も佃島同様、冬〜春はシラウオ、夏〜秋は一般の魚を納入する任務を担いましたが、白魚役は30人にも満たなかったのに対し、佃島は400人以上と数で圧倒していましたから、当時の江戸の人々もシラウオ献上は佃島のお役目と思っていたようです。
「白魚役」とは何者だったのでしょう。
『佃島と白魚漁業』(東京都公文書館)では、大阪から移住してきた漁民ではなく、家康入府以前からいた江戸在来の漁師だろう、と推測しています。
理由のひとつが漁法の違いです。
《佃島の漁師たちは白魚をとるのに四ツ手網を使用するのに、白魚役の人々は建網を使用してとる。これは出身地の漁獲法の差異をそのまま持ち込んでいるとみてよいのではないだろうか》
「建網」とは長さ6尺(約1.8m)・幅4尺(約1.2m)の網を何枚か連ねて川に設置して魚群を誘導し、「サデ網」ですくいとるという漁法で、この漁法は幕府御用時のみに使用され、それ以外での使用は禁じられていました。
ならば佃島の漁師はどこでシラウオ漁をしていたかというと、主な漁場は中川と利根川(現 江戸川)でした。
漁場をめぐって、たびたび白魚役と佃島の間では揉め事が起きました。なんとしても隅田川で獲りたい、これが佃島の漁師たちの長年の悲願だったんですね。
ようやく「白魚役」の漁場よりも上流の千住大橋〜上豊島(現 北区豊島町)ならば獲ってもよろしいと許されたのは、百年以上も後の八代将軍吉宗の時代、享保6年(1721)2月のこと。大岡越前守の裁きで実現したといいます。
それから約150年後の幕末。
子母沢寛の『勝海舟』にこんな一節がありました。慶応4年(1868)、江戸に攻め入ろうとする討幕軍の大将・西郷隆盛との会談を前にした勝海舟の夕餉の描写です。
《元来、食物には、とんと気のない勝だが、白魚だけは余程好きだったと見えて、ちょっと舌へのせると、すぐこれは品川だ、これあ佃だ、これは、何処そこの場違いだねなどとよくいった。殊に、しょうがもわさびも、薬味はつけず、生醤油へちょっぴりつけては楽しそうに食べるのである。》
なんとも粋ですね。
味の違いがわかったかどうかは怪しいのですが、品川の台場あたりで獲れた川を遡る前の小さなシラウオは「ベラ」と呼ばれていましたから、これはサイズで区別がつきそうです。
さて、海舟と西郷との会談で無血開城となった江戸の町は、東京と名前を改められ、年号も明治に変わります。
明治維新で、シラウオを献上していた人々はどうなったのでしょうか。
なに、天皇家や太政官にシラウオを献上する役目をもらえれば、今まで通りやってけるさ、と考えた人もいたはず。
しかし、新政府の決定は「献上などいらぬ。税も免除されていたようだが、これからはちゃんと納めてもらうからね」でした。
さらに明治8年、新政府は日本全国の海面を国有化して、旧来の漁業に関する権利や慣行を一切チャラにし、そのかわり出願して許可を受ければ、誰でも漁業ができるとしました。
漁村間での抗争が激化、大混乱が起きます。そのため海面国有化は翌年に撤回されましたが、漁業の権利や慣行についての法整備は進められました。
課税に加えて漁場の独占権もなくなるなんて! 佃島の漁師は白魚役と組んで、「税金は納めますから、占有の漁場をお与えください」と嘆願書を東京府に提出。
するとゴタゴタに懲りたのでしょうか、「なるべく従来の慣習に従う」と実質的に江戸末期の漁業制度を継承する形で、暫定的に明治12年から5カ年間、隅田川など限られた3箇所で独占的にシラウオ漁をする権利が認められたのです。
白魚役が廃業し、権利が一本化されたことも佃島には有利に働いたようで、この権利は期日満了後も更新され、明治26年まで続きました。
明治14年(1881)には天皇家と徳川家への儀礼的な献上が復活します。
ここで、ふと疑念がよぎりました。
はたして明治天皇はシラウオを召し上がったのだろうか……。
というのも、日本文化研究の第一人者ドナルド・キーン氏によれば、明治天皇は生魚が大嫌いで、絶対に口にしなかったそうで、焼き魚も川魚は召し上がったものの、海の魚は食べなかったといいます。
汽水域のシラウオはどっちだったんでしょうね。
話を戻しましょう。シラウオ献上は復活したものの、明治期の急速な近代化に伴う工場や生活の排水による川の水質汚濁、港湾施設や月島をはじめとする海の埋立てにより、シラウオの漁獲量はどんどん減少していきます。
昭和の初めに隅田川で獲れなくなると中川、さらに多摩川からもいなくなり、戦後、昭和34年ごろには湾奥から姿を消してしまいました。
それでも献上の儀式は、築地市場でシラウオを仕入れるなどして続けられていましたが、他所からシラウオを仕入れていることを知った昭和天皇は、それは大変だろうからと献上をお断りになります。こうして昭和37年(1962)に天皇家への献上は幕を閉じました。
一方の徳川家は今年の1月、60年ぶりに当主が交代し、徳川家広さんが第19代徳川宗家となりましたが、今でも佃島からシラウオの献上は続いています。
《「白魚は、三河豊川の前芝が本場だが、おいら、あそこを通るはいつも時季はずれで、まだ一度も食えねえ。そ奴を食わずに、死ねるかねえ」》(『勝海舟』)
西郷隆盛との会談を前に弱音を呟いた海舟ですが、明治32年(1899)まで生きました。享年75。
最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」でした(諸説あり)。
*参考文献
『佃島と白魚漁業』(東京都公文書館編集/東京都)
『東京都内湾漁業興亡史』(東京都内湾漁業興亡史刊行会)
『勝海舟』(子母沢 寛/新潮文庫)
『東京湾水辺の物語』(読売新聞社会部/読売新聞社)
『文学者が歴史を書く』(ドナルド・キーン/學士會会報839号)
『東京湾再生計画』(小松正之ほか著/雄山閣)