鰻
うなぎ
2023年7月3日 掲載
ウナギとハラキリと「堺事件」。
日本通のイギリス人女性と鰻屋さんに行ったときのことです。
「東京の蒲焼きが背開きなのは、ハラキリを連想させるのを嫌ってですよね?」と聞かれました。
いきなり「ハラキリ」というワードが飛び出たのには驚きました。英語ではSEPPUKUよりもHARAKIRIのほうが通じるのだとか。今や日本といえばアニメ、漫画、禅かと思いきや、サムライ、ハラキリのイメージは根強いようです。
ハラキリが欧米に広く知られるようになったのは、王政復古の大号令(1868年1月3日)で新政府が誕生したばかりの混乱期に起きた「堺事件」がきっかけだといわれています。
鰻の蒲焼きが江戸の名物になった18世紀にはすでにハラキリは形骸化していて、実際には切らず、短刀を腹にあてたときに介錯人が首を落とすのが作法でした。それが幕末になると割腹するケースが激増します。
史実とは多少異なるのですが、日本では「堺事件」は概ねこんなふうに伝わっています。
1868(慶応4)年3月8日、堺の町を警備する土佐の守備隊が、強引に上陸して狼藉を働くフランス兵11人を射殺。
激怒したフランスは土佐藩の指揮官並びに隊員全員の処刑、15万ドル(83万フラン)の補償金、朝廷の代表並びに土佐藩主による謝罪などを要求。
新政府は全面的にこれを受け入れ、隊長ら指揮官4人の切腹を決めたものの、どの隊士の撃った弾が当たったかなどわかるはずもなく、事情聴取をすると「発砲した」と答えたのが29人、「しなかった」と答えたのが41人。
さすがに29人全員は多すぎるので、発砲した者のなかから16人をくじ引きで選出し、合計20人を処刑することにしました。
最初は指揮官4人が切腹、ほかは斬首でしたが「上官の命令に従っただけなのに斬首とは納得できない。俺たちも切腹させろ」と猛抗議を受け、16人にも切腹が認められます。
事件三日後、処刑場は堺の妙国寺。
最初に座についた隊長の箕浦猪之吉(享年23)は一礼し、白木の四方を引き寄せ短刀を取ると、立ち会ったフランス士官を睨みつけ、こう叫びました。
《「フランス人共聴け。己は汝等のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」》(『堺事件』森鴎外)
箕浦は腹をかっ捌くと、傷口に手を差し込み、むんずと腸を掴んで引き摺り出し、フランス人に向かって投げつけます。
介錯人が刀を振り下ろしましたもののこれが浅く、二の太刀で頸椎を断つも箕浦は「まだ死なんぞ!もっと切れ!」と声を張り上げ、三太刀目、凄まじい血煙があがり、ようやく首が落ちました。
こうして次々に呼び出されては切腹が繰り返されました。首が5mほど跳ぶこともあれば、介錯人が首を落とすのに七太刀かかることもあり、まさに地獄絵図。
――これが、噂に聞く切腹か。
未開の国の蛮習という興味もあって立ち会ったものの、あまりの凄惨さに震え上がったフランス士官は、あたふたと逃げるように帰ってしまったために処刑は中断。奇しくも処刑されたのは11人、死亡したフランス兵と同数だった――というものです。
ざっくりいえば、土佐藩守備隊の悲劇ながら、日本人の潔さと勇敢さを外国人に見せつけた事件。大和魂スゲエみたいな感じで語られることが多いようです。
事件のニュースがフランスに伝わると、前年に開かれたパリ万博でジャポニズムブームが頂点に達していたこともあり、極東の小さな島国はますますミステリアスだと衝撃が走りました。
キリスト教社会で自殺は罪ですから、誇りを持って自分で自分の腹を切る、しかもわざわざ苦しむ方法で……なんてまったく理解ができません。
「堺事件」の約30年後の1899(明治32)年、五千円札の新渡戸稲造(1862〜1933)は非キリスト教国の日本人=野蛮という欧米人の先入観を改めたいと、『武士道』(BUSHIDO The Soul of Japan)を出版、ハラキリの意味についても記しています。
のちにドイツ語、フランス語、ロシア語、イタリア語などにも翻訳され、世界的ベストセラーとなった『武士道』が欧米のインテリ層に向けたものとすれば、同じ頃、欧米の大衆を相手にした演劇でハラキリを披露したのが川上音二郎(1864〜1911)でした。
福岡に生まれた音二郎は、14歳で家を飛び出すと放浪生活の末、自由民権運動家となり、今でいう五七調のラップで政治を風刺する「オッペケペー節」を大ヒットさせます。
民権運動の取り締まりが厳しくなると、音二郎は日清戦争の戦地を取材し、それをもとにした報道性と娯楽性をもつ戦争劇を上演。火薬や照明を駆使した斬新な演出は歌舞伎を凌ぐ人気を博し、その新しい演劇スタイルは新派と呼ばれるようになります。
政治家を目指すも続けて2度落選。すると音二郎は一座を組織して欧米巡業の旅に出たのです。
アメリカでは全財産を持ち逃げされるなど紆余曲折があったものの、欧米興行は予想だにしない大成功を納めます。
当時、日本の芝居では女性は女形が演じるものでしたが、欧米では男が女を演じるのは不自然ということがわかり、音次郎は元芸妓である妻の貞に舞台に立ってくれるよう懇願します。
「セリフなんて言えやしないよ」と戸惑う貞に、「なあに、客は日本語が分からないんだから、詰まったらスチャラカポコポコでも何でも大丈夫だよ」と説得。
なんとも行き当たりばったりのドタバタ感満載ですが、こうして貞は日本の女優第1号となったのです。
どうせ、ドサ回り、見せ物的なキワモノ扱いだったんだろう?
……って思いますよね。ところが、かつて浮世絵がゴッホやモネなど近代西洋絵画に多大な影響を与えたように、川上音二郎一座の日本的な演技、表情、発声法は、マンネリ化していた西洋演劇に新鮮な刺激を与えたのです。
なかでも貞は数多くの芸術家を魅了しました。
『狭き門』で有名な小説家アンドレ・ジッドは6度も劇場に通い、このように書き記しています。
《貞奴は彼女のリズミックな均衡のとれた昂奮によつて、我々が求めてゐながら、我々の舞台では見ることの出来ぬ、古代の大悲劇の神聖な感動を我々に与へてくれたのです》
《貞奴は絶えず美しい。絶え間ない、又絶え間なく増大する美しさです。彼女は死ぬときが、これ程の激しい愛情で取り戻された愛人の胸でまつすぐに固くなつて死ぬときが一番美しい》(『貞奴』アンドレ・ジイド)
大絶賛ですね。確かに今、貞の写真を見ても実に美しい。
他にも一座を観た若き日のパブロ・ピカソは貞のデッサンを描き、『考える人』の彫刻家オーギュスト・ロダンは貞にモデルを申し込んで断られ、作曲家のジャコモ・プッチーニは『蝶々夫人』がひらめき、ドイツ映画の巨匠フリッツ・ラング監督は無声映画『Harakiri』を撮ったのです。
「ハラキリのシーンが見たい」という要望は欧米各地でありましたが、最も熱心だったのがフランスでした。理由は「堺事件」にあると音二郎は断言しています。
――サァサァ、これが本当の日本のハラキリだよ!
新聞雑誌で読んだことしかないハラキリとはどんなものなのか? 興味津々の観客が劇場に押し寄せました。
大入りに気をよくしたパリの興行主は、できるだけ血を出して派手にだとか、女も腹を切れとか、立ったまま腹を切るのはどうだ、などリクエストがどんどんエスカレートしていきます。
「注文ということならこちらも商売だ。お望み通り、腹を切って見せましょう」。毒を食らわば皿までと、音二郎はバンバン腹を切ることに。
すると観客はさらに増え、1日2回の興行が3回4回となり、1週間の契約が4ヶ月のロングランという大ヒットとなったのです。
《刀を腹に突き立て、一文字に引き回し、血をさっととばして喉を引っ掻き、目を白黒させ、バッタリ倒れる。ここまでの数分間が、フランス人の最も喜ぶ芝居の山で、その拍手喝采は英米以上であった。のちには、拍手喝采くらいではまんぞくができないようで、満場の見物人がことごとく帽子を取って振るほどだった。こんなことはフランスが初めてである》
入場料を3倍にしても、立錐の余地もないほどだったといいます。
《パリは世界の流行の魁となり、またその中心となるという豪華で洒落た風流の地である。その国民はとてもやさしくおとなしく、そして話がうまく交際が上手である。文明の民はこのようにあるべきだと、日本人は羨望の目で見ていた》
今も昔もパリは花の都。面白いのは音二郎のここからの考察です。
《ところが、人心の裏側を見ると、やはりフランス革命の暗流がどこまでも滾々(こんこん)と流れていると思われる。すなわち、フランス国民は、どこまでも国王ルイ十六世を断頭台に上げた国民である》(『自伝 音二郎・貞奴』)
音二郎は自由民権運動の活動家でしたが、民主主義が内在する暴力性、残虐性をきちんと意識していたようです。
さて一方、日本において「堺事件」が広く知られるようになったきっかけは、1914(大正3)年に森鴎外(1862〜1922)が発表した小説『堺事件』だといわれています。
しかし、鴎外が依拠した資料は、切腹した11人を靖国に祀る目的で書かれた、多分に土佐藩士を持ち上げた形に脚色されたものでした。
そもそも堺に外国人の上陸が許されていることを知らなかった土佐藩守備隊の対応のまずさが事件の発端ですし、立ち会ったフランス士官も切腹に怯えて逃げ帰ったわけではなく、11人を処刑したところで切り上げたのも、新政府に恩を売るための計画通りの行動だったのです。
箕浦が自ら抉り出したはらわた、無念の思いは、はたして鴎外が描いたようなフランス人へ向けてのものだったのでしょうか。
攘夷!攘夷!と声高に叫び、幕府の対応を腰抜けだと突き上げ、外国人襲撃を繰り返していた倒幕勢力が政権を奪取したのが事件の2ヶ月前。
攘夷こそ正義と信じていた箕浦にとって、外国人排斥の実力行使を新政府から罪に問われるとは思ってもいなかったのかもしれません。
それがまさかの掌返し。
「堺事件」の2週間後、明治天皇に謁見するため御所に向かうイギリス公使ハリー・パークスが襲撃されます。これは新政府の「堺事件」の扱いに憤激した2人の浪士による断行でした。
襲撃は未遂に終わりましたが、犯人を斬り捨てたのが土佐藩の後藤象二郎というのも、なんとも皮肉な話ではありませんか。
犯人2人(三枝蓊、朱雀操)は見せしめのために晒し首となり、このパークス襲撃が最後の攘夷事件となりました。
さて、冒頭のイギリス人女性の発言ですが、関東でウナギを背開きにするのは蒸す過程で身が柔らかくなるので腹開きだと崩れやすいというのが理由で、ハラキリと結びつけるのは俗説と思われます。関東では魚の干物は腹開きが一般的ですものね。
ただ、ですよ。
西日本でありながら土佐の高知ではウナギの蒲焼きは背開きが主流です。それだけでなく干物もサバの姿寿司も背開きなのです。
不思議ですね。もしかして、「堺事件」の影響だったりして。
◎追記 刑罰としての切腹は1873(明治6)年に廃止された。
*参考文献
『堺事件』森鴎外(青空文庫)
『堺港攘夷始末』大岡昇平(中公文庫)
『英国外交官の見た幕末維新』A・B・ミットフォード(講談社学術文庫)
『フランス艦長の見た堺事件』B・D・トゥアール(新人物往来社)
『切腹 日本人の責任の取り方』山本博文(光文社新書)
『最期の日本史』本郷和人(扶桑社BOOKS新書)
『自伝 音二郎・貞奴』川上音二郎・貞奴(三一書房)
『川上音二郎欧米公演記録』倉田喜弘(ゆまに書房)
『マダム貞奴』杉本苑子(読売新聞社)
『アンドレ・ジイド全集13巻』アンドレ・ジイド(新潮社)
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