鮟鱇
あんこう
2023年1月1日 掲載
日本のターニングポイントと
アンコウ鍋の奇妙な関係。
魚介類の鍋でみなさんはお何が好きですか? カニすき、鱈ちり、河豚ちり、エビチリ……。おっと、エビチリは鍋ではありませんね。
冬の鍋の代表として「西のふぐ、東のあんこう」と称されるアンコウですが、東の人にお聞きしたい。アンコウ鍋って食べますか? アン肝は食べても、鍋はどうです? 食べる機会がなさすぎて、え? アンコウが代表なの? と戸惑うのではないでしょうか。
どちらかというと、アンコウの立ち位置はフグよりもズワイガニ(松葉がに、越前がに)に似ている感じがします。
観光がてら産地に出かけ、宿にチェックインして、温泉に浸かり、浴衣に着替えて期待を膨らませ、「夕食の準備できました」という仲居さんの声がけで、「待ってました!」となる……そんなイメージ。
というわけで、今回はアンコウを食べに行ってまいりました。
アンコウといえば、やはり茨城。県のプライドフィッシュでもあります。ただ、茨城といっても広い。本場は県中北部……那珂川より北側、いわゆる旧水戸藩領でしょうか。
県全体のアンコウの3分の1を漁獲しているのが、福島県境にある底曳網漁の盛んな平潟港。しかも、平潟地区はアンコウ鍋のルーツである「どぶ汁」発祥の地といわれています。宿はここに決めました。
アンコウ鍋は醤油仕立てが一般的ですが、漁師料理の「どぶ汁」は、水を使わずに、アンコウと野菜から出る水分だけで煮ます。漁師にとっては、船上でなにより貴重な水を使わずに済む料理だったのです。
鮮度のいいアンコウの肝を、土鍋で乾煎りしてから、下処理した7つ道具と呼ばれるアンコウの「皮・エラ・水袋(胃)・トモ(ひれ)・柳肉(身)・肝・ヌノ(卵巣)」に大根を加え、味噌で味を整え、ぐつぐつと煮ます。
店にもよりますが、訪れた宿ではネギも豆腐も入れません。アンコウと大根のみという潔さ。ゆえに見た目は、うす茶色、茶色、こげ茶色。まるでインスタ映えしません。
味はクリーミーなコクがありますが、あん肝から想像するほどまったりはしていません。部位によって食感が異なり、皮なんてプルンプルンしていて、コラーゲンたっぷり。熱々をちゅるちゅる啜る感じ。割下のようなスープはありませんから、〆のおじやも鍋に残った少ないスープだけで作ります。
いやあ、美味しかった。温泉&どぶ汁で、体の芯からぽっかぽか。お肌もツルツルになりそうです。アンコウはやっぱり、北茨城に限りますね。
「でも、漁獲量が多いのは下関ですけどね」と教えてくれたのは宿のご主人。下関産アンコウのブランド化も進んでいるのだとか。いやいや、下関はフグでしょう。アンコウも下関となると、西も東も下関が独り占めじゃないですか。
「やってくれたな、長州。また独り占めか」と、幕末に散った水戸の志士なら悔しがるのではないでしょうか。
明治維新の主役といえば、長州・薩摩というのが一般的な認識でしょう。しかし、迫りくる西洋帝国主義の魔の手に対し、日本も天皇を中心とした近代国家にすべきだと警鐘を鳴らし、いち早く「尊皇攘夷」を説いたのは、「水戸学」と呼ばれる藤田東湖を中心とする水戸藩の思想家たちでした。
東湖に会いたいと、多くの志士が水戸に赴きました。あの西郷どんも洗礼を受けています(吉田松陰も水戸を訪れましたが、東湖不在で面会叶わず)。
九代水戸藩主の徳川斉昭は、藤田東湖のような優れた人物を身分問わず抜擢し、教育の充実、軍事強化など藩政改革に努めました。その一方で、幕府には外国人追放、大船建造、蝦夷地開拓などの国防策を主張し、政治をリードします。
この水戸学一派を粛清したのが、井伊直弼による「安政の大獄」です。御役御免、隠居、島流し……大勢の人が処分を受けましたが、死罪となった14人をみると、水戸藩が最も多く安島帯刀(水戸藩家老)ら4人。徳川斉昭も永蟄居を命じられ、処分が解けぬまま1860年9月に病死しています。
激怒した急進派の水戸藩浪士17人(+薩摩藩浪士1人)が井伊直弼を襲撃したのが「桜田門外の変」(1860年3月24日)です。
襲撃側の18人は闘死1人、重傷負い自決4人、自首後斬首7人、自首後病死3人、のちに自刃1人。襲撃された彦根藩側は、井伊直弼を含め闘死が9人、護衛失敗の責任を問われ、切腹5人、斬首5人、流罪8人。
明治維新はこの集団テロに始まるといってもいいでしょう。司馬遼太郎はこう書いています。
《暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだ事は絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外から始まる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした》(『幕末』/文春文庫)
幕府の最精鋭の彦根藩を破った勢いで、翌61年には水戸浪士・有賀半弥ら14人がイギリス公使を襲撃(東禅寺事件)。62年には、同じく水戸浪士・平山兵介ら6人が老中安藤信正を襲撃(坂下門外の変)しています(6人全員討死)。
幕末の暗殺事件というと、岡田以蔵(土佐)、河上彦斎(肥後)、田中新兵衛(薩摩)、中村半次郎(薩摩)の四大人斬りが有名ですが、初期の暗殺はもっぱら水戸浪士によるものでした。
64年には藤田東湖の子である藤田小四郎を中心とする「天狗党」が挙兵。京都を目指しますが、現在の福井県敦賀で追討軍に包囲されます。捕らえられた天狗党員の数は828人。このうち352人が斬首されました。
その後も水戸藩では、過激派と慎重派の間で凄惨な藩内抗争が繰り返され、人材をことごとく失ったために、水戸藩出身者が新政府で重要な地位を占めることはなかったのです。
桜田門外の変は、季節はずれの雪が降る朝。天狗党が投降したのも雪のなか。深々と降る雪のなか、体の芯まで温まる故郷の「アンコウ鍋、食べたい」と思った志士もいたのではないでしょうか。
靖国神社には、幕末(戊辰戦争以前)の殉難者が約2900柱祀られています。最も多く祀られているのが水戸藩出身の1479柱。次いで多い長州藩が705柱ですから2倍以上です。
事件別の合祀者数をみると、天狗党の乱=1381柱、桜田門外の変=23柱、東禅寺事件=12柱、坂下門外の変=5柱、安政の大獄=4柱。
桜田門外の変や坂下門外の変の実行犯、現代の感覚でいえばテロリストも祀られているのかと驚いたのですが、おや? テロリストといえば……あれも水戸では? と思いあたることが。
日本の歴史上、幕末に次いで、暗殺事件が多発したのが昭和初期です。端を発したのは1932(昭和七)年2月から3月にかけて起きた「血盟団事件」(前大蔵大臣・井上準之助、三井財閥の総帥・団琢磨が暗殺された)。
調べてみると、井上準之助を射殺した小沼正は茨城県那珂郡(現ひたちなか市)平磯町の漁師の三男で、団琢磨を射殺した菱沼五郎は同郡前渡村の農家の三男。つまり、実行犯はともに旧水戸藩領、太平洋に面した村の出身でした。おそらくアンコウ鍋も食していたはずです。
続く五・一五事件(海軍青年将校による犬養毅首相殺害)、二・二六事件(陸軍青年将校による高橋是清大蔵大臣ら暗殺)と問答無用のテロにより、日本の政党内閣政治は終わります。満州国建国、国際連盟脱退……。政権を握った軍部に世論、新聞も同調し、暴走は誰にも止められなくなります。こうして、日本は破滅への道を歩んでいきました。
歴史のターニングポイントとなった2つのテロ事件、「桜田門外の変」と「血盟団事件」。日本の夜明けのスイッチを入れたのも、破滅へのハンドルを切ったのも、実行犯は旧水戸藩領出身者。事件はどちらも寒い2月3月、アンコウ鍋の季節に起きています。
奇妙な符合です。何か理由があるのでしょうか。アンコウ鍋を食べると、血気盛んになるのでしょうか……。そんな妄想をしながら、帰路についたのでありました。
◎追記 驚くべきことに、血盟団事件の実行犯のひとり、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたが、1940(昭和十五)年2月、紀元二千六百年祝典による特赦で出所。小幡吾朗と改名し、戦後は大洗町で漁業会社を経営。茨城県議会議員(自民党)に当選すると、同議長や県漁連の会長を務めるなど、地元の名士となっている。1990年没(享年78)。
*参考文献
『幕末』(司馬遼太郎/文春文庫)
『暗殺の幕末維新史』(一坂太郎/中公新書)
『靖国神社と幕末維新の祭神たち』(吉原康和/吉川弘文館)
『血盟団事件』(中島岳志/文春文庫)
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