小肌

小肌

こはだ

2022年7月1日 掲載

シンコを食べる見栄と意地は
江戸っ子の食文化の名残?

江戸前鮨を代表する鮨ダネは何かと聞かれて、「コハダ」と答える人は多いのではないでしょうか。


氷水に浸けてからウロコを引き、手早く頭、ひれ、内臓、骨を取り除き、開いて皮目を下にザルに並べ塩をして、塩がまわったら洗い流して水を切る。それを酢洗いし、さらに冷やした酢に本漬け。塩の量や酢に漬ける時間は魚の大きさや状態によって異なりますから、職人の腕前が試されます。


しかも、メタリックに輝く姿は鮨ダネのなかでもとびきりの美しさ。コハダの語源も、体表が子どもの肌のようにみずみずしい=「子肌」からともいわれています(諸説あり)


コハダといえば、「幽霊が怖くてコハダが食えるけぇ!」という江戸っ子の夏場の決まり文句がありますが、これは怪談『小幡小平次』に由来するものです。


『小幡小平次』は江戸時代、『番町皿屋敷』(お菊さん)や『四谷怪談』(お岩さん)と並んで、よく演じられた幽霊ものです。バージョンはいくつかあるのですが、あらすじを申しますと……。


小幡小平次(こばた・こへいじ)という陰気で芝居下手な歌舞伎役者がおりました。


師匠が宇奈木(うなぎ)、通称・うなぎ太郎兵衛という名優であったのに比べ、弟子は箸にも棒にもかからぬ大根役者だったもので、格付けで下の魚とされていたコハダ、こはだ小平次と揶揄されるようになったそうでございます。


そんな小平次にあるとき回ってきたのが幽霊の役。ところがこの幽霊役、青白い顔をした陰鬱な小平次にぴったりのハマリ役でして、芝居好きの間では「幽霊小平次」といわれるほど評判になりました。


さて、小平次にはお塚という気の強い女房がおったのですが、このお塚、うだつのあがらぬ亭主に心底愛想を尽かし、亭主の仕事仲間、太鼓打ちの左九郎という男と密通……、今でいうところの不倫をしておったんですな。


お塚が左九郎に囁きます。
「お前さん、そろそろ、やっちまっておくれよ」


一座が奥州へと興行に赴いた、ある雨の日。左九郎は小平次を釣りに誘うと、頃合いを見計らい、エイヤと冷たい沼に小平次を突き落とします。


もがき這い上がろうとする小平次。その頭を激しく板で打ちつける左九郎。カッと目を見開き、口からゴボッ、ゴボゴボッと泡を吐きながら、血まみれの小平次は暗い沼の底へと沈んでいったのでございます。


小平次を始末した左九郎は、江戸に戻るとお塚のもとを訪れ、ことの次第を伝えました。


ところが、お塚は「何を寝ぼけたこと言っているんだい」と部屋の奥を指差します。するとそこには、沼に沈んだはずの小平次が臥せっているではありませんか。


幽霊役を得意としていた小平次だけに、生きているのか幽霊なのか、見分けがつきません。それから、何度殺しても小平次につきまとわれた左九郎はやがて発狂し、お塚も無残な最期を遂げたのでした。


……とまあ、こんなお話。


実在した役者の奇談をもとに戯作者・山東京伝(1761〜1816)が著したこの怪談、『復讐奇談 安積沼』(ふくしゅうきだん あさかのぬま)が評判を呼ぶと、鶴屋南北(1755〜1829)がこれを脚色して上演。浄瑠璃、講談、落語などにもなったことから、小平次はお岩さん、お菊さんと並ぶ日本を代表する幽霊となりました。


現代でも何度か映画化され、京極夏彦はこの題材を下敷きにした『覘き小平次』で山本周五郎賞を受賞しています。


ご存じのようにコハダはコノシロの若魚です。コノシロはマイワシなどと同じニシン目ですが、ニシンやマイワシと違って大きな回遊はせず、内湾や河口の汽水域に群れをなして生息する魚です。


コノシロの漁獲量を調べてみると、2020年のデータでは千葉県が1609tと最も多く、2番目が神奈川県の699t。二県の主な水揚げ地には船橋、富津、横須賀などがありますから、いわば東京湾を代表する魚のひとつといっていいでしょう。


ですが、江戸の武士は、コノシロを焼くは「この城を焼く」に通じると、この魚を嫌いました。


また、コノシロは昔は「ツナシ」と呼ばれていたのですが、貴人からの結婚の申し出を断るために、焼くと人体が焦げる匂いがするというツナシを棺に入れて火葬して「娘は病死した」と娘の親が使者を騙したことから、コノシロ(娘の代)と呼ばれるようになった、という話もあります。


幽霊に落城に火葬の匂い……って、どんだけ縁起の悪い魚にすれば気が済むねんというレベルですよね。


ですが、西日本にはコノシロを丸ごと用いた姿寿司がありますし、酢漬けや焼き魚にして食べます。


もちろん焼いたからといって嫌な匂いがするわけもなく、お隣の韓国では「ジョノ(コノシロ)を焼くと、匂いにつられて家出した嫁も戻ってくる」といわれるくらい、冬に脂がのったコノシロを珍重しています。


魚偏に冬と書く「鮗」(コノシロ)という漢字も冬が旬の魚だからです。小骨は多いのですが、美味しさを見直したい魚の一つです。


とはいえ、コノシロが注目されるのは、やはりシンコ、コハダのサイズ。コノシロはシンコ(全長約4〜5cm)→コハダ(7~10cm)→ナカズミ(約12〜13cm)→コノシロ(約15cm〜)と名前が変わりますが、大きくなるほど値段が安くなる逆出世魚的とでもいうべき存在です。


コノシロの産卵期は春ですから、幼魚であるシンコは夏が始まるこれからがシーズン。7月になるとシンコ目当ての鮨好きがそわそわし始め、市場の値段もバンと跳ね上がる超高級食材になります。


鮨ダネのコハダは一匹で一貫の鮨を握る「丸付け」が主流ですが、初物のシンコは複数枚貼り付けて握ります。4枚、5枚、6枚付けと……細かくなるほど手間がかかり神経を使いますから、シンコ1貫で数千円する店もあるのだとか。


初物を食べる見栄と意地は江戸っ子の食文化の名残ともいえますが、これではおいそれと口にすることなんぞできやしません。


なにせこちとら幽霊と同じでオアシがない……おあとがよろしいようで。


*参考資料
『江戸前鮨 仕入覚え書き』(長山一夫/ハースト婦人画報社)
『令和2年漁業・養殖業生産統計』(農林水産省)

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