鰊のイラスト

にしん

2021年10月1日 掲載

中世の都市国家の盛衰を左右した
沿岸に押し寄せるニシンの大群。

ここ2〜3年、関東の魚屋さんで生のニシンが並んでいるのをたまに見かけます。ソーラン節にも唄われているように、かつては日本でも大量に獲れた魚でした。


1897(明治23)年頃は年間100万トン近くも獲れていたのが、1955(昭和30)年以降は激減し、2015(平成27)年まで3000〜4000トン台に低迷していました。


ところが近年、2016年は7686トン、18年が1万2386トンと、ささやかながらも増加傾向にあるようですから、鮮魚売場で目にする機会は増えるかもしれません。内臓はとらずにウロコだけ取り、たっぷり塩をして冷蔵庫で1日寝かせて焼いた塩ニシン。おすすめです。


ニシンはヨーロッパでもおなじみの魚です。昔、世界史で「ハンザ同盟」を習ったと思いますが、今日はハンザ同盟とニシンについてのお話です。


まずはハンザ同盟成立の歴史を超ざっくりとおさらいしましょう。


476年に西ローマ帝国が滅亡すると、数世紀にわたりヨーロッパは暗黒時代が続きました。イスラム勢力が地中海に進出したことで物資の流通が止まり、自給自足の世界に逆戻り。人々は移動することなく、何世代にもわたり農奴として荘園で働いていました。


ところが、10世紀になり気候が温暖化すると農地の開墾が進み、栽培技術の改良もあいまって穀物の収穫が飛躍的に高まり、人口も増加しました。自分たちが消費するぶんと領主に納める以外の余剰作物は市場で売買されるようになり、自然と貨幣経済が発達しました。


すると、自分で穀物を育てなくても買うことができるようになり、農業以外の生活という選択肢が生まれたのです。こうして閉ざされた荘園を逃がれ、都市で商業や手工業に携わる人が増えていきました。


一方、1096年から約200年にわたって何度も繰り返された十字軍遠征により、大量の人と物資が動いたことで、長年、滞っていた遠隔地交易が動きはじめました。


農業の生産性向上、人口増加、十字軍遠征、イスラム勢力の後退……こうしたことを背景に、北イタリアではアジアの香辛料、絹織物、宝石などの高級品を扱う東方貿易が盛んになり、北ドイツでは北海・バルト海交易で毛織物、海産物、木材などを扱う北ヨーロッパ商業圏が誕生しました。


商業ルネサンスのはじまりです。


北ドイツの諸都市は独立し、諸侯と同等の地位・権利を得ます。そして、より力を持つために都市同士は結束し、13世紀初めにリューベックを中心にハンザ同盟が成立したのです。


前説が長くなってしまいました。


昔、学校でハンザ同盟の主力商品はフランドル地方の毛織物と教わった気がするのですが、『魚で始まる世界史』(越智敏之/平凡社新書)によると、ニシンも重要な商品だったようです。


漁業のなかでニシンが重要な意味を持つのは、その圧倒的な量にあります。11世紀、産卵期になるとバルト海沿岸にはニシンの大群が押し寄せました。ただ、ニシンは鮮度落ちが早く、また脂肪が多いために干物にも適しません。


《リューベックの東にあるリューゲン島の岸に、十一世紀になるとニシンが押し寄せていたのだ。加えて南西には岩塩の産地であるリューネブルクがあった》(『魚で始まる世界史』より)


リューベックはこの塩を利用して、大量のニシンを塩漬けにし、樽に詰めて販売したのです。ちなみにリューベックは文豪トーマス・マンの生誕地で、彼の自伝的小説『トニオ・クレエゲル』には「ニシンのサラダ」がさりげなく登場します。


加えて、河口付近の浅い海域でも航行可能な平底の輸送船を開発し、バルト海沿岸だけでなくロシア、スペイン、イングランドと販路を広げ、14〜15世紀にかけてハンザ同盟は最盛期を迎えました。


しかし、悲劇は突然訪れます。ニシンが消えたのです。


《絶頂は束の間だった。ハンザの富を支えていたニシンの群れが》《バルト海で産卵する機会が減少しはじめ、十六世紀には完全に北海へと移動してしまうのである》(『魚で始まる世界史』より)


北海に移動してきたニシンをこれ幸いと漁獲したのがお隣のオランダです。オランダは大型船を使い、流し網で大量のニシンを捕獲すると、船内で塩漬け加工まで行う生産革命を起こして大儲けしました。


こうしてハンザ同盟が衰退していくなか、オランダは徐々に海上交易の主導権を握り、やがて黄金時代を迎えるのです。


覇権の盛衰の陰にニシンあり。面白いですね。

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