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2020年11月25日(水)更新

東京湾が生んだ江戸前料理

2020年11月25日(水)更新

「天ぷら」「寿司」「蒲焼き」は東京湾の恵み

江戸の食の三大名物といえば「天ぷら」「にぎり寿司」「うなぎの蒲焼き」。どれも江戸の町の目の前に広がっていた遠浅の海でとれる海の幸から生まれたごちそうです。東京湾は美味しい海だったのです。

三大名物は今でも外食で楽しむことの多いごちそうですが、いずれもルーツは屋台に始まります。

江戸は男性が圧倒的に多い町でした。江戸の人口100万人の半数は武士だといわれています。加えて、街づくりの土木建築工事がひっきりなしに行われていたため、地方から大勢の男たちが出稼ぎに江戸へとやってきました。

当然、独身男性が多くなります。そのため、江戸では安くて手軽に食べられる屋台形式の外食産業が発達したのです。

「にぎり寿司」は江戸っ子のファストフード

江戸の初期までは、寿司といえば大坂から伝来した「押し寿司」が主でした。酢飯に寿司ダネをのせて握る「にぎり寿司」が登場したのは文政年間(1818~30年)ごろ。立ち食いの屋台としてスタートしました。

「にぎり寿司」は江戸っ子のファストフード

当時の寿司は現代のようなひと口サイズではなく、おにぎりのような大きさで、小腹が空いたときにおやつのように食べていたようです。

代表的な寿司ネタは、ハマグリ、アナゴ、コハダ、クルマエビなどです。保存技術のなかった当時、ネタは塩で〆る、酢で〆る、醤油に漬ける、湯がく、焼くなど一手間かけた処理がされ、それが職人の腕の見せどころでもありました。

寿司といえば、今ではマグロが代表的ですが、マグロの赤身の漬けが登場したのは天保年間(1844年ごろ)。江戸時代、トロは価値がなく、人気が出はじめたのは昭和初期になってからで、寿司の主役になったのは昭和30年代半ば(1960年ごろ)です。

現在、マグロと肩を並べるほどに人気のサーモンも、寿司ネタになったのは1980年代半ば以降。ノルウェーやカナダから、養殖のアトランティックサーモンが輸入されてからのことです。

魚を胡麻油でカラリと揚げるのが江戸流「天ぷら」

「天ぷら」の屋台が登場したのは江戸中期。搾油技術が向上し、油が増産されてからです。油と火を扱うことから火事になりやすいので、屋外の屋台で営業する店がほとんどでした。

魚を胡麻油でカラリと揚げるのが江戸流「天ぷら」

天ぷらのタネは目の前に広がる東京湾で捕れたシバエビ、ギンポ、ハゼ、メゴチ、アナゴ、キスなどの魚介類。今と違って串揚げにして提供していました。

天ぷらにも東西の違いがあります。

江戸のタネは魚介類が中心で、天つゆに大根おろしで食べるのに対し、関西は野菜が中心で、塩をつけて食べるものでした。

また、江戸は衣に卵を入れ、胡麻油でカリッと揚げますが、関西は小麦粉だけを水溶きせずに衣にし、菜種油でふわりと揚げます。

本来「江戸前」はウナギ産地を示す言葉

今では「江戸前」というとにぎり寿司を指しますが、もともとはウナギの産地を示すものでした。

江戸城の前の海や隅田川の蔵前、深川あたりで捕れたウナギを「江戸前」、千住あたりで捕れたものは「江戸後」、利根川で捕れたものは「旅うなぎ」と呼んでいました。

本来「江戸前」はウナギ産地を示す言葉

江戸前期までの蒲焼きは、ぶつ切りにしたウナギを串に刺し、素焼きにして酢や味噌をつけて食べていたそうです。現在のようなスタイルになったのは、醤油やみりんなどの調味料が普及した江戸中期になってからです。

関東ではウナギを背開きにして、頭を落とし、4?5切れにカットして竹串を打ち、一度白焼きにしてから蒸し器で蒸し、ふたたびタレをつけて焼くために、身がふわりとしています。

関西は腹開きにして、頭を落とさずに長いまま金串に刺して白焼きにし、タレをつけて焼きあげます。焼き終えてから頭を落とし、カットします。蒸さずにじっくり焼くため、皮がパリッとした食感です。

縄文時代から東京湾の恵みを受けてきた私たち

寿司、天ぷら、蒲焼きというごちそうを生みだした東京湾ですが、今から6000年くらい前の縄文時代も東京湾の恵みは人々の胃袋を満たしてきました。

それを示すのが貝塚です。日本全国には1600ヶ所ほどの縄文貝塚がありますが、その15%は東京湾東沿岸に集中していて、世界的にも貝塚が密集した地域として知られています。

日本最大級の貝塚のひとつ千葉県の加曽利貝塚の貝層からは、イボキサゴ、ハマグリ、アサリ、シオフキ、オキシジミ、カキなどの貝殻や、クロダイ、マダイ、アジ、イワシ、サバ、スズキ、ボラ、イシダイ、フグ、エイ、サメなどの魚の骨が見つかっています。

ところが縄文後期を境に東京湾から大型の貝塚は突然消滅してしまいます。理由は定かではありませんが、地球の寒冷化により人口が激減したためといわれています。

その後の日本史は西日本が中心となり、東京湾沿岸は葦の生い茂る巨大な湿地帯、未開の地となり、歴史の舞台から姿を消します。

東京湾沿岸が歴史に登場するのは戦国時代。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの後、関八州を与えられた徳川家康は、100年以上も昔に太田道灌が築いた老朽化した江戸城を居城とします。

江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり 写真
「江戸自慢三十六興 洲さき汐干かり」国立国会図書館所蔵

関ヶ原の戦いで天下をとった家康は、江戸に幕府を開き、城郭の建設、街道の整備、河川改修などインフラ整備の大規模工事に着手しました。こうして江戸の町は整備され、18世紀初めには100万人を抱える世界一の大都市にまで成長したのです。

テレビの時代劇で江戸前の海が登場することはあまりありませんが、江戸時代の錦絵には海や川、舟や橋がたくさん描かれています。江戸で暮らす人々にとって海や川は、漁業や運送の役割だけでなく、花火、舟遊び、釣り、潮干狩りなど憩いの空間でもあったのです。

次回は、東京湾にはどんな魚がいるのか。そして、東京湾の魚はなぜ美味しいのかを探っていきましょう。

東京湾の逆襲!

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度重なるダメージにさらされながらも不死鳥のごとく復活するたくましさ。大都会・東京の目の前に広がる海は実に魅力的なミラクルワールドなのです。東京湾のこと、ご存知ですか?

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