藤壺
ふじつぼ
2023年11月1日 掲載
日本海海戦の影のヒーローは、動物界ナンバーワンの大物。
こんな話を耳にしたことあるのではないでしょうか。
「ある夏の日、一人の男の子が海で磯遊びをしていて転んでケガをした。
膝を擦りむいただけだったが、数週間しても痛みとかゆみが止まらない。
病院へ行くと、医者は急いでメスでふくらんでいる患部を切開した。
するとそこにはびっしりとフジツボが付着していた」
……なんとも、いや〜な話です。
海水と体液のミネラルバランスが似ているというイメージからつい信じてしまいがちですが、塩分濃度は海水が3.5%前後なのに対し体液は0.9%。安心してください。フジツボはヒトの体内では生きられません。
思うに、サンゴ礁でケガをしたときに発症するサンゴ皮膚炎(傷口から毒のある刺胞が入り込み、痛みとかゆみが長引く)とフジツボがごっちゃになって生まれた話なのではないでしょうか。
日本人ならみんな知っているこの都市伝説ですが、「似たような話はイギリスにもあるの?」と日本通のイギリス人女性に聞いてみると……。
「そんな話、聞いたことない」とのことでした。
「フジツボが話題になるとしたら……う〜ん」
彼女は続けました。
「ペニスの長い生き物の代表ということかしら」
今回はそんなフジツボのお話です。
ご存じのようにフジツボはエビ・カニの仲間です。
しかし、フジツボはずっと貝の仲間だと考えられていて、甲殻類であることが明らかになったのは1830年のこと。
案外知られていませんが、この頃、チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)はフジツボの研究にのめり込んでいて、世界中から集めた1万個のフジツボを調べあげ、全4巻計1200ページという大著『フジツボ総説』を書き上げています。
そして「進化論」のヒントもフジツボにあったようなのです。
殻に隠れているためわかりにくいのですが、フジツボは確かに甲殻類らしき形をしています。
歩行する必要がないので脚は羽根扇のような形に変形していて、この脚を殻の上部に開いた隙間から出し入れしてプランクトンを捕まえます。
しなやかに動くのは同じでもイソギンチャクの触手のようなものではなく、たくさんの節と関節からできています。
私たちが食べているエビ・カニの多くは胸部に左右5対、計10本の脚を持つことから「十脚類」と呼ばれますが、フジツボの仲間は植物の蔓のような形の脚をもつことから「蔓脚類」(まんきゃくるい)と呼ばれます。
フジツボの脚を整理すると左右に6対計12本ですが、脚の根元から二股に分かれていて、しかも、それぞれにたくさん毛が生えているので、やたらと脚が多くみえるのです。
フジツボは富士山のような形をしていることから「富士壺」だと思っていたのですが、元々は脚の形が藤の蔓に似ていることからの「藤壺」で、「富士壺」という表記が生まれたのは鎌倉時代以降なのだとか。
甲殻類ですから脱皮もしますし、食べるとカニに似た味がします。
固着して移動せず、殻にこもりっきりの「こもりびと」生活をしているフジツボがどうやって繁殖しているかというと、ペニスをアコーディオンのようにぐ〜んと伸ばして他のフジツボと交わるんですね。
その長さはなんと体長の8倍。
この比率は動物界最大だといいますから、この「こもりびと」、見かけによらぬ大物なのです。
逆にフジツボ同士の距離が一定以上離れてしまえば交尾はできません。フジツボが群れになっているのはこのためです。
「8倍……フジツボのオス、なんかすげぇ」と思いがちですが、フジツボにオス・メスの区別はありません。
フジツボは精巣と卵巣の両方を持つ雌雄同体です。つまり、フジツボ界には男女差別やLGBTのような問題はないのです。
さて、そんなフジツボが、我が国を救ったことがあります。
それが1905年の日露戦争の日本海海戦です。
極東海域の制海権を奪取すべく、喜望峰をぐるりと回り、日本に迫り来るロシアのロジェストヴェンスキー率いるバルチック艦隊。
総合的な国力で圧倒的に劣勢だった日本は、運命を決する海戦の前に艦砲射撃の精度を上げる訓練時間を必要としていました。
当初、バルチック艦隊の到着は3月頃という予測でしたが、実際は2ヶ月も遅れ、この間に東郷平八郎率いる連合艦隊は何度も訓練を繰り返し、練度を高めたのです。
バルチック艦隊が大幅に遅れた原因のひとつが、半年以上かけて、地球の半周よりも長い距離を航海してきた艦底に張り付いたフジツボでした。
フジツボや海藻などが船底に付着すると航走力は著しく劣化しますし、燃料である石炭の消費量も増加します。
船底の清掃をしたくても、アフリカ、インド、アジアなどにある港の大半を統治していたのはイギリスでした。
当時は日英同盟が結ばれていましたから、ロシア艦隊は設備の整った港に寄ることができず、フジツボの十分な除去も良質な石炭の補給もできなかったのです。
《われわれの第二艦隊(バルチック艦隊)は各艦に貝ガラや海草をびっしりくっつけて極東へおもむこうとしている。日本人は掃除も修理もゆきとどいた艦艇をもってわれわれをむかえるであろう……》(『坂の上の雲』*海草は原文ママ)
《事実、東郷は旅順口の長期にわたる封鎖作戦中、艦底がよごれてゆくことを気にしつづけていた。バルチック艦隊の東航までにまずやっておきたいことは各艦艇の掃除であった。それをやるだけのゆとりを欲した。そのために旅順が一日でも早く陥ちることをのぞみ続けていたのである。旅順の陥落は東郷の艦隊に、修理と掃除の時間を獲得させた。》(『坂の上の雲』)
《日本の連合艦隊は、事前にフジツボやカキを取り除き、船底塗料を塗り直して最高速度がでるようにメンテナンスも完璧だった。戦闘時の速度にして約三・七キロも差があったとされている》(『フジツボ 魅惑の足まねき』)
日本海海戦で連合艦隊を勝利に導いた影の主役はフジツボだったともいえるのです。
それにしても、船にとって厄介なフジツボですが、なぜ水中でぴたりと付着できるのか。考えてみれば、かなり不思議なことです。
私達が普段使っている接着剤は水中では使えません。ところがフジツボは水中の船底や岩だけでなく、漁網、ガラス、クジラ、ウミガメ……と、どんなタイプの表面にでも付着することができます。
しかも、バクテリアなどに分解されることもなく、酸やアルカリにも強く、高温にも耐えられるなど極めて頑丈な性質。
数年前、このフジツボの性質を応用した接着剤を使って患部を止血する方法をアメリカのマサチューセッツ工科大学の研究チームが開発したことが話題になりました。
ラットの心臓に傷をつけ、フジツボにヒントを得てつくった接着剤と外科医が使用する止血用ペースト剤と凝血パッチ剤の3つで傷口をふさぐ比較実験をした結果、最も接着強度があったのがフジツボ接着剤で、脈打つ心臓の傷口をふさぎ、数秒のうちに出血を止めたのです。
実用化されるのはまだ時間がかかるようですが、こうなると、冒頭にあげたフジツボが体内で増殖するという都市伝説も、フジツボはヒトの体内でなにかの役に立つ……という予言のようにもとれますから面白いですね。
*参考資料
『フジツボ 魅惑の足まねき』倉谷うらら/岩波書店
『坂の上の雲』司馬遼太郎/文春文庫
『WIRED』2021.10.12
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