Web版 解説ノート
2023年11月20日(月)更新
日本人の生活を変えたイワシ
2023年11月20日(月)更新
膨大な生活物資を運ぶ水路の整備
九十九里浜と銚子。この地域の歴史を語らずして日本のイワシを語ることはできません。
銚子は水運の要の町として発展しました。原点は東京湾に流れ込んでいた利根川を銚子から太平洋へ注ぐように変更した徳川家康の利根川東遷事業です。
重機のない時代。人の手によって河川の付け替え、開削などが進められ、少しずつ東へ流れを移し変える大規模な土木工事が約60年間に渡って行われました。
この壮大な事業は、江戸を水害から守り、新田開発を推進し、水路網を充実させ輸送体系を確立するためでした。
湿地帯だった江戸に町を作った家康は人口が増加する未来を見据えていました。人口が増えれば、米などの食料をはじめ木材、衣料など膨大な生活物資が必要となる。では、その運搬をどうするか。
当時は道路事情が悪く、大八車や馬ではたくさんの荷物を運べません。大量輸送を担ったのは船でした。
東北から送られた米などの物資は銚子まで海路をとり、銚子で川舟に荷物を積み替えて利根川を上り、関宿から江戸に下る。これが「東廻り航路小廻し」ルートです。
寛文11年(1671)、江戸幕府の命を受けた河村瑞賢が、房総半島を迂回し、伊豆下田経由で江戸に運ぶルート(大廻し)を開拓しました。
しかし、銚子沖は海の難所ですから事故も多く、引き続き利根川を遡るルートが利用されました。こうして銚子港は多くの物資の集まる重要な港として機能し、それは鉄道や道路網が整備されるまで続いたのです。
イワシが起こした浜のゴールドラッシュ
黒潮にのって多くの魚が北上します。魚だけでなく、大勢の漁師も魚を追って北上しました。勝浦、白浜などの地名や醤油や鰹節といった物産品など現在の紀伊半島と房総半島には共通点が多いのは、両者が密接な関係にあったからです。
漁法も紀州からもたらされました。
まず西宮久助という紀州の漁師が南白亀村(現白子町)に漂着しました。助けてもらったお礼に久助は地曳き網という漁法を伝えます。九十九里浜は砂浜海岸で港に恵まれませんが、海底が平坦で遠浅な地形は地曳き網には好都合だったのです。
イワシの大半は食料ではなく、綿花や藍など農作物に即効性のある肥料「干鰯(ほしか)」や「〆粕(しめかす)」に加工されました。
江戸中期になると需要が高まり、高値がついたために干鰯や〆粕は「金肥」とも称されました。
干鰯はイワシを砂浜に撒いて干して作ります。乾燥させる期間は春夏で10〜15日、秋冬で25〜30日。
〆粕は、大きな釜で煮たイワシを搾って油を抜いて乾かしたもので、はじめは人力で搾っていましたが、のちにテコを利用したキリンと呼ばれる圧搾機を使うようになります。油は魚油になりました。
銚子の歴史は外川から始まります。
外川も紀州からの移民、崎山次郎右衛門がつくり上げた町です。平坦な九十九里浜と違い、現在の外川の町は斜面に家が立ち並び、浜からは何本も坂道が伸びています。
外川では海のそばで〆粕を作るとともに、坂道を台地の上までイワシを運び上げ、砂場で干鰯を作りました。
銚子や九十九里浜で作られた干鰯・〆粕・魚油は水路と陸路で江戸・深川にある干鰯問屋へ運ばれました。
干鰯・〆粕は木綿の生産量を飛躍的に伸ばし、木綿の普及は人々の暮らしを大きく変えました。それまで麻だった服は木綿に変わり、布団も登場します。寒い冬を暖かく過ごせるようになったのです。
衣服だけではありません。木綿は筵(むしろ)よりも軽くて大きな帆が作れるので、船はパワーアップ。より多くの荷物を運べるようになったのです。また、木綿から作られた漁網は大きくて丈夫でしたから漁獲量も増えました。
魚油は臭いがするものの、値段が菜種油の半分以下だったので、庶民の夜を灯す明かりとして重宝され、人々の夜の過ごし方を大きく変えました。化け猫が行燈の油を舐めるのは原料が魚油だからです。
このようにイワシを原料とする干鰯・〆粕・魚油は江戸時代、人々の暮らしを革命的に変え、銚子や九十九里浜の町は「千両万両 引き上げる」と唄われたほどゴールドラッシュに沸いたのです。
明治の中頃、化学肥料が登場し、全国に普及していきます。それとともに干鰯の需要はなくなりました。海と畑がつながり、栄養が循環していた日本の農漁業は近代化とともに大きく姿を変えていくのです。
世界はイワシでできている 2
世界はイワシでできている 2
イワシは世界で最も多く漁獲されている魚です。海の食物連鎖を支える重要なポジションであることを考えると、イワシこそが地球を代表する魚といっても過言ではありません。