楚蟹
ずわいがに
2021年11月1日 掲載
とれとれ、ぴちぴち カニ料理〜♪
ズワイガニの魅力を伝えた2人の伝道師。
11月6日はズワイガニの解禁日です*。一昨年の鳥取港の初競りでは1匹500万円というとんでもない高値がついてニュースにもなりました。
今や高級品の代名詞のズワイガニですが、全国的に知られるようになったのは、それほど昔のことではありません。
「まるで海の宝石箱や〜」はグルメレポーター彦麿呂さんの有名なフレーズですが、彦麿呂さんよりも前に海の幸を宝石箱と表現した文豪がいました。食通として知られる作家、開高健さんです。
開高さんが宝石箱に喩えたのは「セイコ」と呼ばれるズワイガニのメスでした。
《雄のカニは足を食べるが、雌のほうは甲羅の中身を食べる。それはさながら海の宝石箱である》(開高健全集第15巻「越前ガニ」より)
1965年ごろ、新聞社の臨時海外特派員としてベトナム戦争に従軍した開高さんは最前線のジャングルで取材を続け、凄惨な体験をします。地獄のような戦場から戻ると、疲れきった心と体を癒すように福井県越前町の旅館「こばせ」を訪れ、堪能したのがズワイガニでした。
1日目に茹でガニ、2日目は焼きガニを完食すると、3日目にはご飯2合の上にセイコ七杯分の内子、外子、脚の身をほぐして載せ、カニの出汁と醤油をかけたカニ丼をペロリと平らげました。
このカニ丼をいたく気に入った開高さんは、その後もシーズンが訪れると食べに通い、エッセー、対談、講演などで機会あるたびにその美味さを紹介しました(のちにこのカニ丼は「開高丼」と名付けられました)。
東京でズワイガニを「越前ガニ」と呼ぶ人が多いのは、開高さんの影響かもしれません。
ズワイガニの魅力を全国に知らしめた立役者として、忘れてならないのはカニ料理専門店「かに道楽」の存在です。
『カニという道楽』(広尾克子/西日本出版社)に「かに道楽」の歴史が書かれていたので、ざっとご紹介しましょう。
創業者は兵庫県豊岡市出身の今津芳雄さん。
1915(大正四)年、鮮魚店の8人兄弟の末っ子として生まれた芳雄さんは、長兄の命で小学校を卒業すると行商に励み、地元で水揚げされたカニを必死で売り歩き、目利きとしての腕を磨きました。
長兄の文治郎さんは経営の才覚に恵まれた優れた実業家で、戦後まもなく地元に日和山観光を設立。主な事業は海洋遊園地「日和山遊園」(現・城崎マリンワールド)と旅館「金波楼(きんぱろう)」の経営でしたが、その後も水産加工業にゴルフ場経営と事業を拡大しています。
兄の経営する日和山観光に入社した芳雄さんは、当時よく行われていた社員旅行などの団体旅行をセールスする大阪案内所の所長として赴任します。1960年に案内所に併設して海鮮食堂「千石船」を開店しましたが、これが大苦戦。このままでは店を閉じるしかない……。
そんなピンチを救ったのが故郷のズワイガニでした。開店2年目を迎えようとしていた頃、魚介を塩水で煮て食べる地元の漁師料理「沖すき」をアレンジした新メニュー「かにすき」が大ブレイク。行列のできる店になったのです。
これをチャンスとみた芳雄さんは「カニで勝負してみたい。行商人冥利に尽きる」とメニューを絞り、巨大な動くカニの看板を掲げたカニ料理専門店「かに道楽」をオープンしました。
とれとれ ぴちぴち カニ料理〜♪
デューク・エイセスの歌うCMソング(作曲は浪速のモーツァルトことキダ・タローさん)が誕生したのは1968(昭和四三)年。
高度経済成長の波にも乗り「かに道楽」は大成功。1974年には東京・赤坂に進出。現在は直営店41店舗、売り上げ105億円と日本を代表するカニ料理専門店に成長したのです。
1995年に芳雄さんは逝去されました。享年80。ズワイガニを愛し、その魅力に賭けた人生でした。
芳雄さんはド派手な看板、コテコテのCMソングからくるイメージとは真逆の、とても謙虚な人だったようで、
《日和山観光(株)から分社、独立後も、「かに道楽」は兄からの預かり物と考えて一度も社長にならなかった。生活は質素で、酒は好んだが店の隅でひっそりと飲むことを好み、飲み歩くことはなかった。茹でたメスガニが大好物だったという》(『カニという道楽』より)
と記されています。
なるほど、開高さんも、芳雄さんもメスのほうが好きだったようですね。今年こそは新型コロナに邪魔をされずに、海の宝石箱を楽しみたいものです。
*主たる生産地である富山県より西の日本海沿岸の解禁日
参考文献:『カニという道楽』(広尾克子/西日本出版社)
関連する
コンテンツ
海のギャラリー