鰹
かつお
2021年4月1日 掲載
目黒のサンマ、
鎌倉のカツオ。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」
このシーズンになると必ずニュースなどで引用される、誰もが耳にしたことのある有名な句です。
この句を詠んだ山口素堂(1642〜1716)は甲斐国、今の山梨県の出身です。山に囲まれた海のない国出身の俳人が詠んだカツオの句が、300年後の今も愛され続けているのです。
素堂は20歳のときに家業の造り酒屋を弟に譲り、江戸に出ましたから、カツオを見たのは大人になってからと思っていたのですが、調べてみると実家があったのは今の甲府市中央町。
となると、子どもの頃からカツオに親しみがあったのかも知れません。中央町の江戸時代の地名は魚町。魚市場があった町なのです。
魚市場があったとはいえ、海から離れた山の中。鉄道も車もなかった江戸時代、並んでいたのは地元の川魚や湖の淡水魚じゃないの? と思われるかもしれません。
しかし、昔から吉原(現在の富士市)から甲府を結ぶ「中道往還」という流通ルートがあり、甲府には沼津など駿河湾で水揚げされた魚が一晩で運ばれてきたといいます。気温の低い標高が高い山道を通るため鮮度が保たれ、夏でも駿河湾で獲れた魚を生で食べることができたのだとか。
となると「目には青葉」の句から受ける感じはまるで違ってきます。
周りを囲む山々も青々としてきて、田植えを告げるホトトギスの鳴き声がこだましている。沼津からはカツオも運ばれてきたころだろう……と、遠く離れたふるさとの初夏の景色を懐かしむ句のようにも読めます。
初鰹というと、素堂のこの句と、歌舞伎役者が初鰹を1本3両、今の10万円くらいで買ったといったバブリーな話がごっちゃに語られることが多いのですが、熱狂的な初鰹バブルは明和・安永(1764~1781)から文化・文政(1804〜1830)の時代。素堂が死んだあとのことですから、素堂が句を詠んだころは初物で高かったとはいえ、バブル期ほどではなかったと思われます。
松尾芭蕉(1644〜1694)と友人として親しく交流した素堂。芭蕉にも
「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」とカツオを詠んだ句があります。
「鰹・堅魚・松魚」とも書くカツオ。ホトトギスも「時鳥」のほかに「不如帰、杜鵑、杜宇、蜀魂、田鵑」といろいろな漢字表記があります。「子規」と書いてもホトトギス。
結核を患った正岡升(のぼる)青年は、自分を血を吐くまで鳴くといわれるホトトギスに喩え「子規」という雅号をつけました。正岡子規(1867〜1902)にも
「鎌倉は堅魚もなくて小鯵かな」という句があります。
「目黒のサンマ」ならぬ「鎌倉のカツオ」ですね。
鎌倉のカツオは『徒然草』にも登場します。
《鎌倉の海に鰹といふ魚は(中略)年寄りの申し侍りしは、この魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。(中略)かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ。》(『徒然草』第百十九段)
鎌倉の年寄りが言うには「ワシが若かったころは、鰹なんて立派な人が食べるもんじゃなかった」。そんなもんを偉い人も食べるようになったのは世も末だから……といった感じでしょうか。
実際、流通ルートができて、海の魚や貝を食べる地域が沿岸域以外にも拡大したのは、著者の吉田兼好(1283?〜1352?)が生きた鎌倉時代末期です。
鎌倉時代末期も地震や疫病で、多くの人が苦しみました。このコロナ禍、私たちもカツオを食べて元気にのりきりたいものです。
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